児童書:伝記を読もうシリーズ「葛飾北斎」より。
アニメやマンガの先がけと言われる葛飾北斎の生涯を伝記でわかりやすく説明しています。
子どもにはとっつきにくいんじゃ・・・? ってな表紙ですが、中身はいけてます。
葛飾北斎の人物像について「日本画の大家で他の追随を許さない孤高の人〜」と勝手に思っていましたが、伝記を読んだら全く違ってました。絵が大好きで、楽しいことが好きで、部屋が汚くて気前のいい、おっちゃんでした。
「巨大な達磨を描くよ〜」とチラシを作って、当日たくさんの見物人の前で筆でサラサラ~っと描き上げちゃうんだから、立派なパフォーマーですよね。
「好きこそものの上手なれ」天才の作り方
葛飾北斎というと「富嶽三十六景」が一番に出てくるでしょうか。個人的には『北斎漫画』がお得で好き。
北斎さんは江戸時代にして、コマ割りや効果線を使ってます。
ちなみに、漫画についてウィキで調べてみました。
「漫画」という言葉は、字義的には「気の向くままに漫然と描いた画」という意味である。語源は、よくわかっていないが、随筆を意味する漢語「漫筆」が「漫筆画」を経て「漫画」になったとする説と、「漫画(まんかく)」という名のヘラサギに由来するとの説がある。江戸時代には、山東京伝(『四時交加』、1798年)[3]や浮世絵師の葛飾北斎(北斎漫画初版、文化11年(1814年))[4]の作品の序文や題名で、用語「漫画」が「絵による随筆」「戯画風のスケッチ」という意味で使用されている。(Wikipedia)
そんな北斎さんはもちろん天才なのですが、それは寝食を忘れる程にひたすら大好きな絵を描き続けたからこその、努力の天才とも言えるのかと。
それだけ「好きなことがある」ってこと自体が、神様からの贈り物かもね。
大抵の人は「これも好きだけど」「あれも好き」「ずっとやってると疲れる」って、なかなか一つを極める事ができないからね。
虫好きのファーブルさんも、魚好きのさかなクンも、動物好きのシートンさんも、音楽好きのモーツァルトさんも、お芝居好きの北島マヤちゃんも、サッカー好きの大空翼くんも(って若干古くてすみません)、皆、一つのことを極めてるものね。
北斎さんと頼朝さん
北斎さんは、頼朝さん・・・というか、鎌倉時代をモチーフにして何点か描いてました。
上総(千葉・木更津)の日枝神社(今の八坂神社)を訪れた際に、檜の板に頼朝さんが富士の裾野で巻狩りをしたときの光景を大きな絵馬にして置いていったそうです。
鎌倉時代初期、頼朝さんのお気に入りの仁田四郎くんが、富士の巻狩りで手負いのイノシシを、その背に乗って止めを刺すっていう迫力の絵。・・・にしても、このイノシシすごいよね。勢子たちいっぱいやられてるよ。
脱線しますが、仁田四郎くんといえば、この直後に起きた曽我兄弟の仇討事件で曽我兄の方を討ち取ってます。また、頼朝さん死後は時政さんと手を組んで、比企能員をだまし討で呼び出して直に手にかけたりもしてます。でもその後、ちょっとした行き違いから謀反の疑いあり!と闇討ちされちゃうんだけどね。お気の毒。
この時代の剣術陰謀うずまく世相が見えてきますね。騙さなければ殺される。ちょっとでも疑われたら終わり。
仁田さんは、北条の元の領地・伊豆韮山や、頼朝さん流刑の蛭ヶ島のちょっぴり北、函南の仁田庄出身で北条とはご近所さん。山木攻めに参加したかは不明ですが、その後の石橋山からはちゃんと名前が載ってます。そんなご近所の昔馴染みですら、バッサバッサと斬る北条・・・。本当、生き抜くって大変だね。
そんな仁田さんをモチーフに、勇壮な一枚に仕上げられたこの絵馬。多少色が褪せてしまっているようですが、健在で神社に收められているそうです。
139.3×180.4㎝
板絵着色
文化3年(1806)
町田市立国際版画美術館
「写楽=北斎」説と、勝川家との確執
さて、北斎さんの少年時代ですが、幼い頃から別の家に養子にやられたのに、その家に実子が出来て追い出されたりとちょっぴり不運。
だけど、そんな養子破断など「絵師になりたい」北斎くんにとっては「ラッキー」。版画の世界へと近づきます。
そこから絵師の勝川春章さんに師事して勝川春朗と名乗り始めます。
生来自由な気風の春郎くんは、別流派である狩野派と仲よくしたり、自由気まま。
小生意気ながら、筋のいい春郎(北斎)は師匠に可愛がられるも、兄弟子からはめっちゃライバル視。
そして弟子入りから14年、師匠が亡くなると、折悪しく狩野派との交流もばれ、兄弟子から勝川派を破門されてしまいます。
さすがに落ち込んだかなー?
と思いきや、そんな頃、流星のごとく現れたのが、「写楽」
海外向けグッズでの定番の日本画と言えば、菱川さんの「見返り美人」と、写楽さんの「歌舞伎役者」ですよね。
でも「写楽」って実は、正体不明、謎の絵師なのです。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)3月にかけての約10か月の期間内に、145点余の作品を版行している。(wiki)
これ、ちょうど北斎さんが勝川派を破門された年代とピッタリ。
「東洲斎写楽」っていうのがフルネーム(?)なのですが、
東洲斎=東の島国=日本の国の
写楽=写生を楽しむ
写生・・・つまり、兄弟子達、勝川派が得意とする役者絵の「大首絵」の特徴をデフォルメして、コミカルに漫画チックに仕上げて楽しんだ・・・なんて、もじりが可能になっちゃうんですね。
が、描かれた当初は、人々の評判も、役者本人からの評判も悪かったそうで。
そりゃあ、ちょっぴり悪意の入った絵というものは、どんなに上手でもどこかにそれが滲むものかもしれませんね。
役者本人としては「顔の特徴を表しすぎ! もっと美形に描け!」ってな苦情だったのかもしれませんが。
ちなみに北斎さんは、生涯で色々な画号を使って絵を描いています。そして、写楽の版画を出版していた版元は蔦屋さん。蔦屋さんと北斎さんは仲良し。そして、海外はボストン美術館に渡った写楽の版木の裏を見れば、北斎の版木だった・・・となれば、「写楽=北斎」説の信憑性も上がるというもの。
でも、ウィキだと別の人の方が有力候補みたいだけどね。ま、浪漫ですから〜
とりあえず、北斎さんの茶目っ気あふれ、また嫌いなヤツには徹底抗戦! みたいな江戸っ子の意地が垣間見えるようなエピソードで面白いですね。
武士を描かない北斎さんと、普通に風景に入れちゃう広重くん
さて、そんな北斎さんですが、こだわりは他にもあって「富嶽三十六景」で武士を描かなかったそうです。
よく「富嶽三十六景」と一緒に比較される歌川広重の「東海道五十三次」では、普通に旅姿の武士とかが風景の一部として自然に描かれているのですが、北斎くんはナシ。
なんでも、勝川派を追い出される原因にもなった、狩野派のお友達が、武士との口論が元で切腹するという(武士じゃないのに)みたいなことがあったようで、もしかしたらそれ以来なのかしら? とか思うとロマンが広がりますね。
ちなみに「東海道五十三次」の広重くんは、北斎さんよりも40歳も若く、早くに両親と死別するなど不遇の人生。生活の為に絵師になろうと門を叩いたのが安藤派。北斎さんのショッキングなアートな絵に比べて、大人しく写実的な叙情的風景画の世界。
しばらくは北斎さんの「ザ・富士!」のアートが大人気だったものの、時は田沼の豪華なバブリー時代から、天明の飢饉&寛政の改革という自粛時代へと変換。
庶民の楽しみも華やかなりし歌舞伎スター浮世絵の世界から、「富士信仰」旅情ブームへと移行。
まだ行ったことのない五十三の各名所を、自分のかわりに旅してくれる人々の絵とくりゃ、そりゃあ欲しいよな。海からの強風に煽られつつも手で笠をしっかり押さえて足早に通り過ぎる旅人や、茶店の女将の出す団子を黙々と食べる人、想像も出来ないような断崖絶壁を美しくそびえる富士山を見ずに越えていく人とか。
今でいう『いつか行ってみたい世界の絶景・秘境写真集』みたいなもんでしょうかね。
というわけで、若いけど着実な広重さんに、北斎さんは何度か勝負を挑むもののなかなか勝てず、「花鳥月」でもチャレンジしたものの、アート性はさておいて、手元に置いて愛でる浮世絵として販売部数で圧勝したのは広重さんだったとか。
にしても既に齢70代で、名前もかなり売れてて絵の大家と言って間違いないのに「くそー、負けるもんか!」と子どものように素直に、若い才能に負けじと勝負を挑む北斎さんって心底カッコいいわ。
今、ブーム? 夜の画家・三女のお栄
北斎さんは生涯に2回結婚しててお子さんも六人。そのうちの一人が、今ブームの応為(おーい)ちゃん。
ペンネームの由来は、「父ちゃんがいつも『おーい』って呼んでたからさ」とまぁ、あっけらかん。ま、「おえい」って言い難いし、つい「おーい」になるよね。父ちゃんの画号の一つが「為一」だし、同じ字を使うっていうのがまた門人らしくていいかも。
ちなみに応為ちゃんも一回はある絵師と結婚していたらしいのですが、離婚してからは父ちゃんの弟子に。いや、助手兼ゴーストライターとも。北斎さんとの共通点も確かにありつつ、女性らしい色使いと線のしなり、構図、光の表現は親子と言えども似て非なるもの、といった印象を持ちます。
応為ちゃんの得意は、夜のくるわの絵。
三味線やら琴やらに興じる女達のひそかな楽しみを、表舞台ではなくこっそり覗き見るような色気がよい。浮世絵としては明らかに暗すぎない? の闇の中、温かそうな炎に照らされる白い顔。紅に映えるかんざしと、薄紅の夜桜。見惚れます。
北斎が「俺には描けねぇ絵だぁ」と思わず唸ったら、「おとっちゃんは昼間の絵かきだからね」とヘラっと返す粋な人。
んでもね。そんな雅とは対象に、北斎さんと応為ちゃんの部屋は、とてつもない汚部屋だったそうで。
江戸といえば長屋。狭い上がりに布団と机、食べ物と絵の具が混在する中に紙がたくさん散乱して足の踏み場もなかったとか。
伝記を読もう「葛飾北斎」より
のだめの汚部屋はね、まだ現代だし、フィギュアとかぬいぐるみとか、お洋服とか物も多いし、散らかりやすいのもわかりますけどね、江戸っ子はリユース&リサイクル&リデュースの3Rで、古くて狭いながらも清潔を保ってたはずじゃないのっ?!
北斎さんはひどい引っ越し魔で、五十六回も引っ越しをしていて、その間一回くらいしか火事に遭わなかったとか。その引越の理由も「汚いから」。・・・って、おい、どうやって荷物運んだんだか??
のだめもそうだけど、天才って一つのことに集中し過ぎてしまって、他のことは出来ないんだろうね。で、隣にいる秀才は逆に何でも出来ちゃうから、器用に助けてくれるってこと。で、天才でも秀才でもない人間は、やっぱり3Rを気をつけながら生きていかないといけないんだね。
北斎の晩年と、絵かきへの執念
さて、そんな北斎さんですが、晩年になっても「まだまだ! 俺はまだだ〜!」と絶叫しています。
弟子の露木為一の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。(wiki)
これ、応為ちゃんの言葉が胸に痛いですね。
「何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ」
そうだよね。無知の知。
だめだーと自棄になって、そこで諦めるか、歯を食いしばって続けるかが分かれ道になるのかもね(泣)。
北斎の晩年の作品で、小さいながらも迫力があったのが「富士越龍図」。
「自分の死を予感してるような作品」と添えてあったけど、私は願望では? と思ったり。
龍になって富士のお山より高く昇る。そこから見る風景はどんなでしょう?
「くそぅ、絵に描けねぇ」って泣いちゃいそう(江戸っ子だねぇ)。
北斎さんの辞世の句は、これまた何だかフザケてるような、おしゃれなようなものでした。
「ひとだまでゆく きさんじや 夏の原 画狂老人卍」
(さあて、死んだら、ひとつ気晴らしに、ひとだまにでもなって、夏の野原を飛んでいくとするかな)
でも、亡くなる直前には、こんなことを言っていたそうです。
「天が、おれを、あと十年、生かしてくれるなら
天が、おれを、あと十年、生かしてくれたなら、ほんもののの絵師になることができたのに。」
北斎さんは4月18日に、90歳で亡くなりました。
十分に十分過ぎるくらいのほんものの絵師なのに、まだ描き足りないのね。
これぞプロ根性・・・なんでしょうか。死ぬ直前まで描いてた。
でもモーツァルトなんかに比べて、長生き出来て良かったよね。
ゴッホさんは、この北斎さんのド根性をこそ影響受ければ良かったのにね。
で、この「天が、おれを、あと十年、生かしてくれるなら」を見事に使っていたのが、ジャンプの「磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜」でした。
ギャグ漫画なのですが、その根底に流れる時代ものや歴史上の人物に関しての知識がしっかりしているからこそ、笑いの破壊力が半端ない。尊敬してます。
ネタとしては少年漫画らしく、ちょっとエッチな情報を求める青少年磯兵衛が、春画(エロ本)を求めて風來していた時に、ちょうどご臨終だったのが北斎さん。
「天が、おれを、あと十年、生かしてくれるなら・・・」と、北斎さんは、ちょうど臨終に立ち会った孫?のお北ちゃんに「十年くれ」と交渉。お北ちゃんに北斎さんが憑依することに。
で、磯兵衛は北斎さんの春画見たさに協力するわけですよ。なんだけど、一見かわいい少女のお北ちゃんが春画持ってたらおかしいじゃないですか。で、磯兵衛が白い目で見られる、という。
とまぁ、北斎さんの伝記本の紹介からあちこちに飛びましたが、この「伝記を読もう・葛飾北斎」は子ども用の伝記シリーズですが、大人が読んでも面白い一冊だったので、是非。
日本画というと「地味」とか「難しい」と思われがちで、子どもからしたら西洋画以上にとっつきにくいかもしれませんが、やっぱり日本人だし、ある程度知らないとね。というわけで、まず画家の伝記でハートを掴んでから美術館に行くといいかもしれません。予習しておくと、授業の入りがいいですし。
2016年なら、すみだ北斎美術館がいい夫婦の日にオープンするらしいですよ。まだ先だけどね。いいな、行きたいな。
ちなみに同じ伝記シリーズの「伊能忠敬」さんは、私にとっては可もなく不可もなく、サラッと読み終えてしまいまして、あんまり印象に残らなかったのです。伊能さんがすごい人ってことはわかったんだけどね。
やはり文章を書く人の才と、また相性によるところがあるのでしょうね。ちなみに、この北斎を担当されたのは芝田勝茂さんでした。あんまり読んだことないけど。
伊能さんの伝記は、とりあえず「歴史にドキリ」の忠敬さんを見て、それからでもいいかも。
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