夜半、時政と小四郎は箱根権現へと辿り着いた。迎えに出た箱根権現の別当は、二人に驚きの事実を伝える。
「え、佐殿がここにおられる……? 無事に逃げおおせたのか……!」
時政はその場にへなへなと腰を下ろした。それから突然に笑い出した。狂ったかのように。
「佐殿は大した御仁だな! さすがは我が婿だ!」
時政はひとしきり笑うと、サラリと顔を変え、箱根権現の別当へと向かう。
「すぐに将の元へと私を! 一刻も早く、無事をお確かめしたい!」
別当は満足気に頷くと時政と小四郎を案内しようとした。だが時政はふと足を留め、小四郎を振り返る。
「小四郎」
満々と笑みをたたえた時政が小四郎の前にいた。
「お前はこれよりすぐ甲斐へと向かえ。甲斐の武田勢へこれまでの事情を伝え、そして援軍を連れて戻るように」
命を下す時政に、箱根権現の別当が驚いた顔をする。
「おやおや、佐殿の御前に参らずにご子息を甲斐へやるおつもりですか。少しは休息された方が良いのでは?」
「いや、この次男は軟弱に見えて、なかなかの丈夫なのですよ。そうだよな? 小四郎」
冷たく目を細める時政に何が言えたというのか。ただ、今の小四郎には、父と距離を置けるというだけで余程救いだった。口をつぐんだまま何度も首を頷かせる。
時政は嬉しそうに頷き返すと、そっと小四郎の耳元で囁いた。
「石和五郎に恩を売ったはこの時の為ぞ。まず石和へと赴き味方につけ、武田へと顔を繋ぐのだ。しっかりやれよ。畠山の時のような失敗は許さぬぞ」
耳元で響く低い声。それから、またいつものカラリとした人の好い顔に戻って笑った。
「そうだ、小四郎。そなたにはこの鎧をやろう。しっかりお役目を果たすよう御守りだ」
託されたその鎧をどう着けたのか小四郎には記憶がない。気付けば一人の僧に案内されて山伏が通るという獣道の上にいた。
既に止んだ夜の空は雲が切れて星が出ていた。着替えたらしい着物と受け取ったらしい新しい水のおかげで少し軽くなった身体。自分のではない鎧がガチャガチャ鳴るのが妙に耳につきながらも、どこか様子のおかしかった父と距離を取れた安心感から、小四郎はやっと息を吸うことが出来た。
「安房……?」
ふと、先程感じた違和感を思い出す。そうだ、何かあったら安房に行こうと合戦前に皆で話し合ったはず。何故父は甲斐と言ったのだろう? 伊豆山神社からだって海路を安房へ向かった方が安全な筈だ。
狩野氏の領土は伊豆の南端。そこへ向かうまでに兄は合戦前に捨てた筈の北条の地の側を通らなくてはいけない。
時政は強引なやり口で近隣の諸氏から恨みを買うことも多かった。宗時はその時政の仲介役として何度も頭を下げていた。よって宗時には人望があったが時政は恨みを買っている。そんな土地へ時政の兜をかぶって落ち行く?
先程、佐殿を見捨てても我らは生きねばと言った父が、何故狩野を守る?
いや違う。時政は『我ら』とは言わなかった。『北条』と言った。血の繋がらぬ宗時、そして傍流の江間は時政にとって生きる価値のない人間だとしたら……?
小四郎は足を留めた。自分の身体に纏わり付く鎧がひどく冷たく重く感じる。脱ごうとするが手が震えて紐がとかじる。脱げない。鎧を身体に結びつけている紐を切ろうとして、自分の鎧は時政が持って行ってしまったことを思い出す。こんな戦地で鎧も無しに前に進めるわけがない。
小四郎は歯を食い締めると歩を進めた。早く。早く行こう。石和へ行って五郎に会って、そして武田の中に紛れるのだ。そのまま逃げてもいい。どうせ自分など誰も必要としていない。
突然足を早めた小四郎に案内の僧は驚いた顔をしたが、小四郎の目を見て何かを感じたのか、何も言わずに歩を早めてくれた。
いち、に、いち、に。目の前に交互に現れる自分の足先と地面だけを見て、小四郎は甲斐を目指した。生きる為に。
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