黄瀬川に現れたその人は、たった一人で立っていた。
たくさんの男達に囲まれて守られながらも、心はたった一人で立っていた。
その姿を見た瞬間、小四郎は武田の隊列から離れてその人の元に駆け寄っていた。その人は小四郎の姿を認めると一瞬驚いた顔をして、それから穏やかな微笑みを浮かべた。
「うむ、小四郎、よくぞ生き延びた。誠に、誠によくやってくれたな」
柔らかな声が固く凍っていた心をじわじわと溶かす。歯を食いしばっても我慢しきれずに後から後から溢れて来る涙。小さな声と共に鎧の銅が小突かれた。
「やれやれ、しょんないヤツだ。もう少し我慢しろよ。私まで泣いてしまうじゃないか」
それから頼朝は周りに聞かせるかのように大きな声で泣き出した。
「ああ、小四郎。約束するぞ。三郎の死は無駄にはせんからな!」
その途端、小四郎の嗚咽が変な音を立てて止まる。
やっぱり兄は死んだのか。殺されたのか。小四郎の背を這う冷たい何か。
父は当然兄の死を知っていただろう。でも逸見山で合流した後も一言も小四郎に兄のことを話さなかった。小四郎も聞かなかった。
けして戻れない道を歩み始めてしまっていることを今更ながら小四郎は思い知った。
鎌倉に入ったのはそれからまた一月経った十一月のことだった。八月に山木を討ち、伊豆を出てより三月が過ぎていた。鎌倉の風は伊豆のそれより冷たく、海が近いせいか砂を含んで、乾いた肌をかじった。
古くからの寺社や家屋の合間を縫って、急ごしらえの居所が数多く建てられていた。そして中央には大きな立派な邸が一つ。まだ工事中ではあったが、その規模たるや伊豆の辺りでは見たことのないような大きな物だった。
「鎌倉殿の新邸である」
工事を担当した者が鼻高々にそう告げるのを、小四郎は不思議な気持ちで聞いた。
『佐殿』と呼ばれていた頼朝は『鎌倉殿』と呼ばれるようになっていた。
その後、一時的な仮住まいとされた上総氏所有の邸で、政子が姫と多数の侍女達と共に頼朝を迎えた。
「お帰りなさいませ」
濃く落ち着いた色の上質な布でしつらえられた小袿。浅い朱の袴。ゆったりと下ろされた髪。それらはことごとく政子に似合ってはいた。
でも伊豆での軽やかな湯巻、きりりと動きやすく結い上げられた髪、台所の戸から顔を覗かせて「あら、お帰り」と笑顔で迎えてくれた強い姉の面影はそこにはなかった。
人形のように死体のようにグニャグニャとして、まるで羽化に失敗した蝉のよう。小四郎は目を逸らした。
でももう逃げられない。宗時兄から託されたそれを政子に渡さなくてはいけなかった。
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