無言でそれを姉の前に差し出す。カタンと硬質な音が床に響く。朱色をしたそれを確認した途端、姉は悲鳴を上げた。
櫛だった。亡くなった母が大事にしていた櫛。
何故兄が持っていたのか知らない。何故姉が悲鳴を上げるのか知らない。でも櫛がどんな意味を持っているかくらいは小四郎も知っている。
櫛の音はク・シ。「苦」と「死」に通じた。イザナギとイザナミの別れ、日本武尊と櫛名田比売の別れ、永遠の訣れを意味した。
歯が数本欠けていた櫛。小四郎が見た時には既にこの状態だった。櫛の歯が折れる時、その髪に宿った「苦」や「死」が身代わりになって折れるのだと、櫛の持ち主を守るのだとも言われていた。だから人々は折れた櫛を大切に供養した。
そしてまた、櫛は求婚の証として男から女へと渡される風習があった。黒く長い美しい髪をいつまでも保って欲しい、そのように幸せにする、と約束を込めて贈られた。
政子の悲鳴を聞きつけた侍女達が部屋に駆けつける。おろおろと周りを取り囲むが、政子は平静を取り戻さない。叫び続けて枯れた声で、それでもまだ喉を開き、目を見開いて何かを叫ぼうとしている。
「政子!」
頼朝が飛び込んで来た。政子の肩を掴んでガクガクと揺らす。頬を張り飛ばす。その迫力に、今度は周りにいた侍女達が悲鳴を上げる。
「下がれ!」
頼朝の一喝に、侍女達は慌てて立ち上がると次々に部屋を飛び出していった。小四郎も立ち上がる。櫛をそのままにしていいものかどうか一瞬悩んだが、頼朝は既に目にしているはずだ。そのままで戸口に向かう。だが制止の声が響いた。
「小四郎、お前は残れ」
冷たいその声に、つと息を吸う。修羅場を覚悟した。頼朝は兄と姉の関係を知っているのだ。恐らくずっと前から。小四郎が頼朝と八重のことなど知らない振りをしていたように、頼朝も兄と姉のことを知らない振りを続けているのだ。
侍女達が全て去った後、頼朝は小四郎に厳命を下した。
「その櫛を丁重に供養せよ」
返事をし、頭を下げたまま続きの言葉を覚悟して待つが、頼朝は続きを口にしなかった。
「何をしている、早く下がれ」
小四郎は櫛を掴むと立ち上がった。
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