「あはは、またやってる。くわばら、くわばら」
保子はそう唱えると、こっそり腰をかがめて小四郎の脇を通り逃げ去る。が、数歩進んで振り返った。
「そうだ、さっきの直垂は私が八重様の所に届けてあげるわよ。八重様だって一応妻の仕事をしたいと思うのよね」
断ろうと小四郎が口を開く間もなく、保子は何かを叫ぶと駆け出した。五郎の姿を見つけたのだろう。台所の二人のいがみ声が止む。小四郎は咄嗟に戸の陰に隠れた。政子と牧の方が顔を出すのが見える。二人揃って肩を並べ、保子が五郎を追い駆け回す姿を笑って見ている。ああやっていると仲の良い友人のように見えるのに。二人は義母と小姑の長女という関係ながら、実に同じ歳だった。
小四郎は二人に見つからないようにそっと足音を忍ばせて馬屋へと向かった。愛馬を引き出し門をくぐる。
狩野川の支流を引き込んで館の周りに巡らされた堀。その堀にかけられた橋を渡って領地へと出た。富士の山が北西に広々と見え、小四郎はホッと息をつく。富士の天頂は今は雲に覆われている。雪が降り始めているのだろう。雲がどけば初冠雪が見られるかもしれない。
小四郎は馬の手綱を引き、のんびりと富士を眺めながら歩いた。馬を連れているのだから乗ればいいのだが、それでは散歩を楽しめない。かと言って、馬を連れて行かないと何かあった時に対応出来ない。
「おまえも散歩しないと息が詰まるだろ」
愛馬・小富士に話しかける。小富士は小四郎の元服祝いに義母の実家である牧氏から贈られたものだ。富士の裾野で育った名馬。小四郎が手にする数少ない持ち物の一つと言って良かった。
「小四郎兄ぃは、馬にだけは言葉をかけるんだからなぁ」
突如聞こえた幼い声にギョッとして後ろを振り返る。そこには、弟の五郎がチマチマと後を付けて来ていた。五郎は五つ。先程まで五郎を追っかけていた筈の保子の姿はない。小四郎は無言のまま五郎を抱き上げ、鞍につけていた縄で縛り上げると馬の背に乗せ、元来た道を戻り始めた。
「何だよ、これ! 縄をほどけよ!」
五郎が叫ぶがお構いなしで歩く。少し早足で。
「もう逃げないからさ! いいじゃんか、俺も連れてけよ! 石和殿の所だろ?」
もう逃げない。その言葉を何度聞いたことか。その度にしっかりと裏切って逃げ出してくれる弟を、小四郎はもう信用するつもりはなかった。
「義時兄のだんまり! 腑抜け! しんねりむっつり!」
まだ五つのくせに口の悪い弟。猿轡をかけてもいいだろうかと真剣に悩みながら小四郎は黙って歩く。五郎の口が悪いのは絶対に政子のせいだ。政子は口が悪い。気っ風がいいのだと頼朝は言うが違うと思う。五郎は政子の言葉には盲目的に従う。そして真似をする。出産時に母を亡くした五郎にとって、育ての親・政子は母そのものだった。つまり先の悪口は全て政子が小四郎に対してかけた言葉。姉になら言われても我慢出来るが、弟には言われたくない。でも小四郎はそれでも言い返さずに黙々と歩いた。
面倒。それが第一の理由。小四郎は人と争うのが苦手だった。どちらかというと、いや、もう積極的に言ってしまうと、自分のことなど見ずに構わずに放っておいてくれたらいいのにと真剣に思っていた。
館へ戻ると、五郎の叫び声を聞きつけた保子が真っ赤な顔をして駆けつけて来た。
「もう五郎ったら、また勝手に抜け出して! 今日は一日手習いをしていなさいと言ったでしょ!」
その腕に五郎を託すと、小四郎は今度は馬に乗って出かけた。
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