江間小四郎義時は今年十七。昨年、北条の南に位置する江間の土地と名を受け継いだ。で、そのついでに妻も娶った。いや妻を娶らなくてはいけなかったので分家を済ませたというべきか。妻の名は八重。八重は小四郎や政子にとっては母の妹、つまり叔母である。ついでに言うと頼朝の昔の恋人でもあった。
「八重姫は伊豆一の美人だ。良かったな」
父・時政はそう笑ったが、笑えるはずもない。
兄の宗時は小四郎より九つ歳上なのにまだ妻帯していない。それこそ八重姫との収まりはいいはずだが、兄は伊東からの申し出をあっさりと断った。宗時は元々、烏帽子親である牧宗親の娘と許嫁のような関係にあった。だが、その娘を横取りしたのが事もあろうに父・時政だった。時政は京の大番役に出かける直前に妻を五郎の出産で亡くしている。三年後に新しい妻だと連れ帰ったのが、京で暮らしていた牧の娘だった。
だが宗時は文句を言わず、かえって清々しい顔をしていた。宗時はその時既に政子と通じていたし、家族の皆もそれを暗黙の了解としていた。
だが、そこに北条家の預かりとなって土地の一角に住まっていた流人・源頼朝が関わってくる。頼朝は罪人として蛭ヶ小島に流され、それから数年は時政が監視していたが、乳母である比企の尼の手回しにより、より環境の良い伊東氏の預かりとなった。そこで伊東の末の八重姫と恋に落ちる。子まで生まれたが、伊東祐親は二人を引き裂いた。子は殺され、八重は寺に押し込められ、頼朝は命を狙われて伊豆山神社に逃げ、時政を頼ってまた蛭ヶ島に帰ってきたのだ。
北条家には六人の娘がいた。時政は野心を持っていた。流人が在地の豪族の娘と結婚することは珍しいことではなく、うまくいけば政変により中央に返り咲く者もいる。頼朝の母は熱田神宮の生まれ。上西門院とは関係が強く、それは後白河院とも近いことを示す。頼朝が死罪を免れたのもそれらの勢力の手回しがあってのもの。とすれば、また後白河院が力を取り戻せば頼朝が中央に復帰する可能性がないわけではないし、頼朝を庇護した伊豆国守護の源三位頼政や熱田神宮に恩を売っておいて損になることはない。
時政は大番として京に出掛ける前に、宗時と小四郎の二人に厳命した。
「私が留守の間、佐殿によくよく仕えるように」
時政が留守の間に、気付けば政子が頼朝の相手をつとめるようになっていた。一番の美人と言われた次女・時子ではなく、長女・政子が選ばれたことに皆驚いたが、誰も何も言わなかった。
時政は、頼朝と政子のことを聞いてとりあえず怒ったフリをして見せた。平家の手前と、元舅・伊東祐親の手前あってのことだ。伊東祐親は八重の父であり、小四郎や政子達の生みの母の父だ。
だから伊豆山神社へと隠れた政子を連れ戻す素振りすら見せなかった。一年程して二人の間に姫が生まれるが、それに関しての平家からの咎めがないことを確認した後に、頼朝と政子を北条へと迎え入れた。
時政の新しい妻は駿河の豪士・牧の姫。また、源氏の嫡男・源頼朝も婿として手に入れた。これから先、北条が伊豆において勢力を伸ばしてくるかもしれない。北条の地は面積こそ小さいが交通の要所にある。そして時政は口もうまく、京との独自の繋がりを持ち、三浦や千葉などの東国の諸豪族にも顔がきき、強引なやり手として有名だった。伊東祐親は慌てる。娘が亡くなって時政との姻戚関係が途絶えてしまった今、新たな婚姻関係を結んでおく必要があると判断した。
で、白羽の矢が立ったのが寺に押し込めておいた末娘の八重姫。頼朝のことを忘れて結婚しろと父に言われる。が、宗時は時政に真っ向から反抗して結婚を拒否。負い目から、あまり宗時に強く出られない時政はかわりに小四郎に声をかける。で、出た言葉が「美人で良かったなぁ」なのだ。
手を出せるわけがない。十も年上の叔母。おまけに義兄の元・恋人。
結果、義時は引き継いだ江間の地にはほとんど足を運ばず、元服前と変わらずに北条館の片隅でひっそりと暮らしていた。江間の館は八重姫が寛いで暮らしてくれればそれでいいと思っていた。それに、これは政子にはとても言えないが、たまに江間で頼朝の姿を見るらしい。それが何を意味しているかなど察してあまりある。そして更に江間に近寄れなくなった小四郎がいた。
とにかく、このとかじった関係の中、義時は『見ざる・聞かざる・言わざる』の三猿を貫いていた。
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