それから、二人はぽつぽつと話し始めた。
「迷子なんて、子供のすることじゃない」
口を軽く尖らせたら、兄は肩をすくめた。
「今日は星が出てないから方角もわからないのさ」
「兄さんったら言い訳してる」
「昔、やっぱり政子が迷子になったよな」
「ああ、市に付いて行った時の話?」
「ああ、あの時は確か紙の人形をねだってわがまま言をったんだ。母さんがきっぱり拒否して先に進んだら、政子はすっかりへそを曲げて駆け出してさ。で、狩野川に落ちたんだったな」
「やだ、川に?それ本当の話?」
「本当」
「全く覚えてないわ」
「あの時は、母が着物をぱっと脱ぎ捨てて川に飛び込んだから本当に驚いたよ」
「え、あの母さんが?」
「そう、あの母さんが」
美しく、しとやかで、皆の憧れの存在だった母。
「館に戻ったら俺が父さんにこっぴどく叱られた。『おまえが飛び込まなくてどうする!』ってさ。
俺はひたすら謝ったよ。でもよく考えたら、俺はその時まだ六つだったんだぞ。さすがにまだちょっと無理だろうって今なら思うんだけどね」
思い出したように笑う宗時。目の前で喉仏が揺れるのを、政子は不思議な気持ちで眺めた。
そこで宗時は少し息をつめると、頭を軽く落とした。
「だから」
兄の声が、耳元近くで響く。
「父さんも寂しいんだ。父さんは本当に母さんのことを愛していたんだよ」
「うん」
それは知っている。だって政子は仲の良い幸せそうな二人をずっと見てきたから。政子にとって、兄妹にとって、父母は理想の夫婦だった。だから母を失った父の苦しさはよくわかる。わかるけれども、でもやっぱり政子には受け入れられなかった。
「わかるけど、嫌なんだもの」
政子はぼやく。
「ああ、ますます家を出たくなっちゃったなぁ」
「え」
父が帰ってきたら、義母が一家の女主人となり、今、政子がいる場所を奪ってしまう。そして兄もきっと北条家の嫡男として、誰かと結婚をしてしまうだろう。そうしたら、ぬくいこの場所もその奥さんのものになってしまうのだ。
「あーあ」
政子は心底がっかりして長いため息をついた。
「私も結婚しちゃおうかなぁ」
「誰と?」
「別に誰とでもいいけど、ただ家を出たいだけ」
素直にそう答えたら、ぷ、と噴き出される。
「政子らしくもないな」
「だって」
言い訳をしかけて、それから政子は名案を思いついた。
「ね、兄さんも一緒に家出しない?」
「え?」
「兄さんと私と、二人で家出しましょ? そうしたら、新しい母さんの顔を見なくて済むわ。だって兄さんだって思うでしょ? 父さんが帰ってきたら煩いだろうなって」
兄は絶句していた。呆れて声が出なかったのだろう。でも政子は気にしなかった。
実は政子は話している内に眠くなってきていたのだ。だから普段なら口にしないようなことを口走っていた。
「兄さんの匂い、いい匂い。大好きよ」
兄の肩に頭をもたれかけた所で瞼が重くて仕方なくなって、政子はそのまま意識を手放そうとした。
ゆらり。
身体が傾ぐ。
何?
精一杯の力で瞼を持ち上げれば、割れた屋根とその向こうに真っ黒な空。
横たえられたのだと気付く。
でも、何も不思議に思わなかった。
このまま抱いてくれたらいいのに。兄妹だっていいじゃない。
政子の願望に応えるかのように宗時の顔が迫る。目を閉じたら唇を塞がれた。
熱い。
兄の唇は熱かった。こんなに寒いのに、冷たい外気に晒されているのに。
今、この瞬間、兄と想いが通じてる。そんな気がした。互いが互いを求め合っているように感じるのは、私の勘違いではない。
それが、単なる男としての性欲であってもいいと思った。はけ口とされてもいい。兄と一つになれるのなら。
何度も何度も口付けを交わし、夢か現かわからない程の幸せを感じる。
男はア、天を表し
女はワ、地を表す
乱れた人の世と心を整える為、
男神と女神はアワ歌を唄い、和合の尊さを語り伝えた。
アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ
どこかで聞いた古い言葉、古い唄。
安心する。
身体の中を震わせ、風のように通り過ぎて行く音の響き。
心地よい。
だが、身も心も委ね、瞼を下ろしたことが仇となった。
政子は意識をすっかりと手放してしまったのである。
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