「北条三郎殿」
かけられた声に振り返れば、そこには安達藤九郎盛長が立っていた。
「どうかされましたかな? こんな朝早くに」
丁寧な物言いをするが、この盛長を宗時はあまり信用出来ないと思っていた。心を読ませぬ薄気味悪さがあるのだ。政子もこの盛長を毛嫌いしている。いや、毛嫌いしていたはずだった。なのに最近は平気な顔で話をしている。盛長の主人である頼朝とは特に親しげに話すようになった。それが、宗時には信じられなかった。
そして今、政子のいない今、盛長が自分の前に現れた。宗時は言い知れぬ不安と焦りとに身を苛まれていた。
「狩りにでも出掛けられるのですかな?」
宗時は一瞬迷ったが、口を開いた。
「妹を捜しています」
すると、盛長は「ああ」と頬を緩ませ頷いた。
「姫はご無事でいらっしゃいますからご安心なされ。それを伝えに参りました」
その瞬間、腹の底の方でごそりと何かが蠢くのを宗時は感じた。
「政子は、どこに」
聞かなければよかったと思った。何も聞かず、黙って連れ戻しに行けば良かった。果たして、盛長はにたりと笑って言ったのである。
「姫は、我が殿の元にいらっしゃいます」
宗時は無言で馬の首を上げた。
「どちらへ」
盛長が、その進路を塞ぐ。この男、身軽なのが特技である。宗時が答えずに睨みつけると、盛長は首を少し傾げて宗時を見上げた。
「もしや北条のお館で何事がございましたかな。姫君は大層お嘆きであった」
宗時は目を見開いて、盛長の顔を見る。それが肯定の印。盛長はそれを確認すると目を伏せた。
「姫らしくもなく泣きじゃくり、助けてと何度も申された。もう死にたいと、殺してくれと、それはそれは大層なお嘆きぶりでした。海に身でも投げんばかりの勢いに、我ら、姫をひたすらお慰め申していたのです。朝になってようやっと少し落ち着かれましたが、お屋敷には帰りたくないと申される。だから、こうやってご相談に参ったのです」
全くの嘘である。だが宗時は表情を強張らせて地を見つめていた。もう盛長を見ていなかった。
翌朝、目覚めたら着物が上に掛けられていた。上質なものだ。乳母か実家から送られてきたものなのだろう。源氏の嫡流と、その代々受け継がれてきた宝刀、立派な弓、たくさんの書物、そして上質な着物が、それに似つかわしくない古い狭いあばら屋に収められている。何となく、頼朝自身と共通するものがあるように思った。見た目は奇人で好色家でいい加減で、でもその身の内には熱い理想と切ない恋と沈着な頭脳が収まっている。それが澄ました顔で読経しているのだから可笑しいことこの上ない。
「本当、変な人」
政子はそう呟くと、大きく伸びをして外にでた。
「おお、姫。早いな」
外に出てみれば、頼朝がちょうど門をくぐって帰ってきた所だった。藤九郎の姿は見えなかった。
「八幡様に詣でてきたのだ。姫は行かないで良かったか?」
「佐殿、あなたもしかして毎日お参りに行ってるの?」
「ああ。子を弔う為にな」
政子は黙って頼朝を見た。穏やかな顔だった。その穏やかな顔の下に一体どれだけの葛藤をこの人は抱えているのだろう?
その時、耳元でキツネの声がした。
『そら、来たぞ』
「え?」
後ろを振り返った政子の横で頼朝が動いた。政子を突き飛ばす。
「あっ!」
弾き飛ばされて地に伏せる政子の前で、矢が戸に刺さった。
「名を名乗れ!」
頼朝が一喝する。大きな声だった。政子はその声に驚いて腰を上げられぬまま、矢が飛んで来た方角を見た。そこには三人の男達がいた。それは、市で一悶着を起こした代官の用心棒の、いや武田の郎従達だった。
「甲斐源氏、武田家郎党、田中三郎家義、佐殿のお命頂戴する」
用心棒の着崩れた格好ではもうなかった。武装した三人の武士が頼朝と、そして政子の命を狙いに来たのだった。
「姫」
政子は地についたまま、頼朝を仰ぎ見る。
「逃げよ」
政子は息を呑む。頼朝は政子を見ていなかった。腰に佩いた妖刀『髭切』に手をかけ、抜く機を待っていた。政子が三人の男達の方に視線を戻すと、男達は刀を構えてじりじりと距離を縮めて来ていた。
どうする? 逃げるの? 政子の力では敵うはずがない。
政子は逡巡した。兄を弟を呼ぶことも出来ない。きっと男達は私のことも一緒に殺すつもりでいるだろう。逃げることなど出来ないのだ。
頼朝はもうこちらを見ない。その横顔は覚悟を決めた者の潔さに満ちていた。それを見て政子の肚は決まった。
政子は部屋に走り戻ると、それを掴んだ。ずっしりと重みのあるそれは政子の手にすぐに馴染む。太さも長さもちょうど良い。
その時、ピーと長く口笛の音が響いた。続いてバサバサという大きな羽音。政子が外に飛び出すと、正面の大きな楠の木から、大量の鳩が飛び立った所だった。
「何?」
男達も一瞬度肝を抜かれたようで立ち止まる。
「暇にかまけてな。餌付けしていたのだ」
そう言う頼朝の顔は何故か嬉しそうに笑っていた。それを見た政子も思わず笑みを零す。
「また、愚にもつかないことを」
「本当は鷹を馴らしたいのだが、この流人の身ではそうもいかなくてな」
「それは残念。鷹がいたら戦力になったのに」
頼朝は、ちら、と政子を見た。
「逃げぬのか?」
「逃げたって殺されるでしょ。同じなら、一人でも減らしてあげるわよ」
そう言って、政子は長刀を前に向けた。弓の方が得意だが、この距離では意味が無い。少しでも距離を稼ぎ、体重を力に利用して戦うには、女には長刀が一番だった。
「ほう、見事なじゃじゃ馬ぶりだら。お相手つかまつるぞ」
娘のかんざしをこそ泥した男が、にやにやと下卑た笑顔で政子の前に立つ。
「あんたのお相手なんかしたくないけど! でも、あんたみたいな最低な男、一人でも多くやっつけてやるわ」
政子は長刀の切っ先を男に向かって突き出した。
相手の男が手にしていたのはこん棒と小刀。それを両手に持ち、こん棒で長刀を抑えながら小刀で狙ってくる。狙うのは首。戦で接近戦になった時、相手を討ち取り褒美を貰うために、相手の首を持ち帰るのが習わしだった。
政子が繰り出す長刀の突きを、男は笑いながらかわしていく。
「なかなかうめぇじゃねぇか」
余裕の表情だ。遊んでいるつもりなのだろう。でも、こちらは必死だった。少しでも気を抜けば小刀が政子の首筋を狙ってくる。
横などは向けないが、頼朝は二人を相手に斬り結んでいるようだった。まだやられていない。なら、私が先にやられるわけにはいかない。
でも、長刀はどんどん重くなっていく。力のない女の腕で男と長時間渡り合うのは無理だった。上がる息、遅くなる振り、そしてとうとう長刀が地にたたき落とされる。
「そこまでだんな」
勝ち誇った男の声。政子は長刀を拾おうと手を伸ばすが、その前に髪を引っ張り上げられた。
「じゃあ、この女、貰うぜ」
「ええからげんにしとけよ。殺す約束だら」
先ほど名乗った男が呆れた顔で政子達の方を見る。目線を外す程余裕があるということなのか。その先を見れば、頼朝は腕を重そうに下ろしていた。
「殺すさ。楽しんでからな」
男は政子の肩を掴むとそのまま押し倒して来た。殺す前に犯そうというのか。政子は自らの行く先を知り、目の前が暗くなった。
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