ぜいぜいと肩で息をして政子は門に手をかける。
「まったくもう!五郎ったら、一体どこに行ったのよ!」
門から首を突き出して辺りを見回す。だが、広がる田園風景の中にも五郎の姿は見当たらない。政子は段々不安になってきた。
少しきつく縛り過ぎただろうか。こんな家にいるのはもう嫌だと飛び出したのかもしれない。
でも厳し過ぎると言われても、政子は五郎を野放しにするわけにはいかなかった。だって五郎は母の忘れ形見なのだ。留守にする父に政子が託された。何事だってあってはならない。
政子は大きく息を吐いて呼吸を整えると、もう一度門の外によくよく目を凝らした。屋敷の内ならそれ程心配はいらない。でも門の外となると別だ。もし、人さらいにあっていたらどうしよう。
政子は不安で高鳴る胸をぐっと拳で押さえつけると館の方に踵を返した。
館内は妹達を総動員して探させ、門より外は自分と小四郎が馬で回ろう。家人達には近辺の村に連絡をさせて。
と、その時、左手後方より声がかかった。
「政子、探し物はこれか?」
親しみのある声に振り返れば、小さな五郎を小脇に抱えた三郎宗時が笑って立っていた。
「兄さん! 五郎!」
政子はほっとして肩の力を抜く。五郎は宗時に抱えられて、きゃっきゃと笑っていた。宗時は穏やかな笑みをたたえ、大股で政子のいる方へやってくる。その青磁色の直垂は爽やかで、ここ数日続いた長雨の重さを払ってくれるような清浄な空気を放っていた。
政子に似て大柄な身体に、鍛え上げられた体躯。箙(えびら・矢入れ)を肩にかけている所を見ると、領内の見回りの帰りなのかもしれない。
「兄さん、お帰りなさい!」
政子は笑顔で駆け寄った。
政子より三つ上の宗時は、政子の自慢の兄だ。北条家の嫡男として留守の父の代わりに領内の一切を取り仕切っていた。いつも穏やかで落ち着いていて、笑顔を絶やさず、領内の人望も厚い。頭が良く、常に先を見通して行動する宗時には、うるさ型の父も一目置いて頼りにしていた。武士としての剣や弓の腕も確かで、政子に武芸を仕込んだのも、この兄である。
だから政子は唯一、宗時の言葉だけは素直に聞いた。二十歳になる今でも、兄の前でだけは自分を幼子のように感じた。兄に褒めて貰いたくて、認めて貰いたくて、どんなことでも懸命に取り組んだ。
宗時は政子のすぐ側までやって来ると、五郎を高く抱え上げておかしそうに笑った。
「このいたずら坊主、馬に乗ろうとしてたぞ」
「えっ、馬に?」
政子は思わず目眩を覚える。五郎はまだやっと三つだ。馬から落ちるのも危ないが、落馬後にその蹄に蹴られたり踏まれたりしたら大怪我どころでは済まない。
政子は宗時の腕の中の五郎の頬を両手で挟み込み、ゆっくりと顔を近づける。
「こら!馬に近づいたら駄目って、あれほど言ったでしょ!」
大きな目を更に大きく見開いて、怖い顔をして見せる。が、五郎はと言えば、にまにまと笑っていた。政子は渋面を作る。この賢い弟は、幼いながらに知っているのだ。宗時が側にいる時は、政子の怒りが半分以下に抑えられるということを。
「もう!馬に踏まれたら死んじゃうのよ?」
政子はこめかみを指で押さえると大きなため息をついた。駄目だ。後で叱り直すしかない。効果はないかもしれないけれど。さしもの政子も、兄の前では可愛い妹にならざるを得なかった。そんな政子を穏やかな眼差しで見つめていた宗時が口を開いた。
「政子は今日は市に出かけるんじゃなかったのか?」
「そうよ、出掛ける準備をしていたら五郎が逃げ出したの」
政子は頬を膨らませる。
「じゃあ、五郎は俺が見ててやろうか」
「本当? 助かる……」
そう答えようとした瞬間、
「やだぁ!」
宗時の腕の中の五郎が暴れ出した。
「お、何だ?」
じたじたと手足を振り回す五郎を、宗時はひょいとつまみ上げる。政子は頬を引き攣らせると、視線を横に流した。
「一緒に出かけるんだって、さっきからわがまま言ってるの」
「連れて行ってやればいいじゃないか」
あっさりと答える宗時に、政子はふんと首を横に大きく向けた。
「絶っっっ対に嫌! はぐれて迷子になるもの!」
その途端、宗時が噴き出した。政子が驚いて宗時を見上げたら、宗時の大きな手が政子の頭を包んだ。そのまま宗時の大きな手は、まるで幼子にするかのように政子の頭をゆっくりと撫でる。
「……え、何?」
突然のことに、政子は目をぱちくりさせる。そんな政子の様子を見て、宗時は目を優しげに細めた。
「政子も市で迷子になったことがあったじゃないか」
「え、私が?」
「ああ。五郎と同じくらいだったかな。俺と一緒に市に行くってわがまま言って付いて来て迷子になってさ。母上にすごく叱られてた」
「そんなの覚えてない」
「ふぅん、そうか」
言いながら、宗時の手が政子の頬に落ちる。
温かい大きな手が頬を掠め、横髪を軽くのけて耳たぶに触れる。政子の心臓がびくんと跳ね上がった。でも足は地面に張り付いたように動かなくて、政子は石にでもなったようにただ身体を硬直させるしかなかった。
そんな政子を気にせず、宗時の指は政子の首筋をゆっくりと微かになぞっていく。その緩やかな動きに、何故か身体の芯がぞくぞくと震えるのを政子は感じていた。その震えは胸のあたりまで迫り上がって、ちくちくと攻めて来る。
大きな手が顔の横を通った時、微かに懐かしい心地がした。兄の匂いだ。乗馬を教えてもらう時、弓の鍛錬の時、兄は政子の腕を取り、ぴったりと寄り添って細かに丁寧に教えてくれた。
あの時は安心と心強さをもって身近に感じられた兄の匂い。でもあれから何年も経ち、触れる程に身体を近づけることもなくなった。それが今、あの時と同じ匂いが懐かしさばかりではなく、妙な色気を持って感じられることに政子はひどく動揺していた。
「……兄さん?」
おずおずと兄を見上げる。その意思をはかるように。呼びかける声は、もしかしたら震えていたかもしれない。
宗時は伏せていた目を上げると、政子の目の前に指を出した。そこに摘まれていたのは一枝の葉。
「小枝や葉っぱが付いてるぞ。随分と捜し回ったんだな」
「え?」
慌てて自分の胸元に視線を落とした政子は目を見開いて叫んだ。
「やだ! 着物が!」
今日は出掛けるからと、お気に入りの着物に着替えていたのに、そこにはたくさんの小さな葉がひっついていた。先ほど、庭で木の陰を覗き込んだ時に引っかけたのだろう。
「もう! 五郎の馬鹿!」
政子は五郎に八つ当たりをすると、着物を叩きながら後ろを向いた。
やだやだやだ、私の馬鹿!
変な想像をしてしまった自分が恥ずかしい。赤く染まっているだろう顔を必死で冷ましながら、政子はパンパンと着物を叩いた。
……本当に馬鹿だ。私と兄とは血の繋がった兄妹なのに……。
政子が嫁にいかない最大の理由。それは、兄への恋慕ゆえだったかもしれない。
「じゃあ、今日は俺がお供しようか」
思わぬ兄の言葉に、政子は赤い頬のことも忘れて勢い良く振り返った。
「え?」
「市に行くのは久しぶりだ。五郎の見張りと、荷物持ちになってやるよ」
「きゃあ、行く行く!」
政子より早く五郎が返事をする。
政子も内心は「やったぁ!」と叫びたい気持ちだったが、でもそこをぐっと堪えて、おずおずと口を開いた。
「でも兄さんは見回りの途中なんじゃないの?」
「今日は特に揉め事もなかったし、たまにはいいだろ。それに小四郎がどうせ館にいるんだろ?もし何かあったら俺の代わりに対応してもらうさ」
その兄の言葉に、政子はあることを思い出した。そう、弟達に五郎探しをさせたままだったことを。
「やだ、忘れてた! 兄さん、待ってて! 小四郎たちに話してくるから!」
そう言うなり、政子は屋敷に向かって駆け出す。お気に入りの着物の裾がはためくのも気にせず駆けながら、政子は頬を緩ませ大音声で叫んだ。
「小四郎、保子、時子、育子! すぐに来て! 五郎が見つかったわよ!」
兄と一緒にお出掛けなんて、今日はなんてついてる日なのかしら
この記事へのコメントはありません。