「あら? どなたへの文?」
目敏い牧の方は、家の中に入ってきたそれをすぐに目咎めた。
美しい花の枝がつけられたその文は、どう見ても恋文。手にしているのは前妻の一番下の娘、泰子だが、泰子宛であるわけがない。文の受け渡しを頼まれているのだろう。
「ええ、政子姉さんによ」
泰子がおしゃまな口調で、ちょっと得意げに答える。
「毎日来るのよ。でも、姉さんったら全部捨ててしまうの」
「へえ、一体どなたから?」
あまり興味もなくそう尋ねたら、泰子は頬をにまっと持ち上げて内緒話をするように、牧の方の耳元に口を寄せた。
「佐殿よ」
「えっ、佐殿?」
佐殿と言えば、前右兵衛権佐、源頼朝ではないか。牧の方は驚いて息を呑んだ。
流人とは言え、源家の嫡流で、その嫡男だ。父の義朝公はあえない最期を遂げたものの、石清水八幡宮を武神に華麗なる働きを見せた八幡太郎義家公の血筋を真っすぐに受け継ぐ頼朝は、京育ちで官位や血筋に詳しい牧の方にとっては、恐れ多い相手であった。
「そうよ。あのね、藤九郎殿が言うにはね、佐殿は姉様に夢中って話なの。だから、姉様はいつも捨ててしまうんだけれど、それでも何とか渡してくれって言って、私がいつも預かってお部屋に置いてくるのよ」
伊豆の国の無位無官の北条家にとっては、本来は雲上人である頼朝からの文。なのに、この家の者達はその頼朝からの手紙を何とも思わずに受け取っては捨てているらしい。
牧の方は確認するように繰り返した。
「お相手は政子殿なのね? 時子殿ではないのね? そして、政子殿は受け取っても捨ててしまうのね?」
「うん、昨日も来たわ。去年からずっと来てるのよ。父様が帰る前はよくこの館にも佐殿が遊びにいらしてて、佐殿は政子姉様と仲良く話をしていたって、保子姉様が言ってたわ。保子姉様ったら、戸の影からこっそり覗いてたんですって」
楽しそうに話し続ける泰子。
「文は毎日来るのね? お返事は書いてるの?」
「毎日来てるけど、姉さんがお返事書いてるのは見たことないわ。とにかく私は毎日姉様の文机の上に置かなきゃいけないから大変なのよ」
大変だと言いながら、大人の男女の秘密の香りに、まだ幼い泰子は少女らしく頬を赤く染めて得意げにそう話した。
文を手に走り去る泰子を笑顔で見送った牧の方だったが、その腹の中ではどす黒い嫉妬が大蛇のようにうねうねと蠢いていた。
どうして政子ばかりが、良い想いをするのだ? 私の方がずっと美人なのに。
三郎宗時に源頼朝。どちらも夫として考えるに、政子には過分な相手と思われた。どちらが政子と結ばれても、牧の方にとっては面白くないことになるだろう。
政子と牧の方、二人は並んで台所に立っていた。それは時政の命だった。
まるで楽しくないと感じていても、とりあえずは笑顔で会話を続けることが女が生きていくための術だと、幼い頃より笑顔を強制されて育てられてきた牧の方は、野菜の話や天気の話など、当たり障りのない話を政子に投げ続けながら台所仕事をしていた。それに対し、政子からは「はい」や「いいえ」「そうですね」の一言しか返って来ない。三番目の時子か、その下の育子、泰子なら、まだ楽しい時間だろうと思う。せめて二番目の保子でもいい。とにかく政子とのこの時間が牧の方には苦痛だった。
前妻の道具を燃やしてしまったことは確かに悪かったと思う。でも自分には悪気はなかったのだ。謝ったことだし、いい加減、へそを曲げるのは止めて欲しい。古い道具を新しく買い替えることの何がいけないのか?
本当に、こんな可愛くない娘のどこがいいのだろう?
ふと、牧の方は政子の真意が知りたくなった。かまどの火の加減を見ている政子に、つと寄る。
「そう言えば、政子殿はおいくつになられたの?」
「二十一です」
知ってるくせに。よくもいけしゃあしゃあと。
政子はそう思いながらも、火の加減を見るのに忙しいような振りをして顔を上げずに答えた。
「ああ、うちらは同い歳やったなぁ。嬉しいわぁ」
ちっとも嬉しくなんかないくせに、牧の方は無邪気な声を上げて笑ってみせた。それも最近、気をつけて使っていなかった京風の言葉をわざと使って。
「あのね。うち、ほんまに悪いことしてしもたなぁって思てるんよ? どうか堪忍ね?」
そう言って、軽く眉を寄せて謝って見せたら、政子は少し驚いた顔をしてこちらを見た。それから慌てたように立ち上がる。
「いえ、いいんです。私こそごめんなさい」
そう言って、軽く目の周りを赤く染める政子を見て、牧の方は獲物が罠に引っかかったことを知る。鼻で嗤うが、端から見たら優しげな笑みでしかない。
「ほんま? 良かったぁ」
牧の方は大仰に目を細めると、政子の手を取りその顔を見上げた。
「嬉しいわぁ。うちら、ようやっと仲直り出来ましたなぁ」
とろけそうな顔でふんわりと微笑む牧の方に、政子はかなり動揺した。あの強い意志を宿した目が、今は迷いと申し訳なさと、それから僅かな親愛の色を見せ始めている。政子には今まで女友達というものがいなかった。歳が近くて近所に住んでいて、そして武士の娘という立場も同じで、すぐに会って話せる、そんな気心の知れた相手などいなかったのだ。
そして、牧の方の方でも、そんな政子の反応を見て少し警戒を緩めていた。思ったよりもこの娘は嫌な娘ではないのかもしれない。もしかしたら共にうまくやっていくことが出来る相手なのかもしれない、そう思い始めていた。でも、一度やると決めたことはやり通すのが京女の誇り。
牧の方は柔らかな笑顔のまま、政子に質問を投げかける。
「ところで、なぁ、政子はんは好いてる方っていてるの?」
「え」
「実はねぇ、うち、この前こっそり泰子はんから聞きましたのよ? 佐殿からお文をいただいてるって。素敵やわぁ。うちはまだ、お会いしたことあらしまへんけど、やっぱり源氏の御曹司やし素敵な方やろねぇ?」
「文なんて、違います。あれは時子に宛てたもので間違いです」
「へぇ、時子はんに? まぁ、時子はんも器量良しさんやしねぇ。やけど、泰子はんのお話では、安達殿が『佐殿は政子殿に夢中だ』て言うてはったって」
その瞬間、政子の顔が赤く染まった。
文に返事もせず、その気などまるでないのかと思ったら、一応は頼朝のことが気になっているようだ。
途端、意地悪な気持ちがむくりと頭を持ち上げる。たかが伊豆の田舎娘のくせに何様のつもりなんだろう。もし自分だったら、絶対にそんな美味しい魚、逃がしはしないのに。
牧の方は、続けてもう一手打ちこんだ。胸を押さえ、さも切なそうに声を出す。
「ああ、やけど、うち、政子はんがお嫁に行ってしまったら寂しいわぁ。心細いわぁ」
「え」
面食らった顔の政子が牧の方の顔を見下ろす。その顔には既にもう警戒や敵意の影はまるでなかった。政子は完全に牧の方の術中にはまっていた。
牧の方は政子のすぐ前に立つと、軽くしとやかに首を傾げ、甘えるように政子に身を寄せた。
「ね、ずっと北条にいらはったらええのよ。ああ、ほら、三郎殿と夫婦にならはりましたら、ずっとこうやって一緒におられますなぁ」
すると、政子は手にしていた薪をがらがらとその場に落とした。それから「あっ」と一声小さく叫び、急いでしゃがみこんで散らばった薪を拾い集める。
「あら、どないしはったん?」
何気ないように声をかけつつ、牧の方は政子の顔を鋭く観察していた。政子は耳まで真っ赤になっていた。
「だ、だって、私と兄さんとは兄妹だし、そ、そんなことあるわけが」
それから、突然口を押さえると何も言わずに背を向けて走り去った。
ああ、と牧の方は呟く。政子は知らないのか。
くすり、くすくす。
伊豆に来て、こんなに楽しいことに遇うなんて思いもしなかった。
それから牧の方は、どう駒を進ませるのが自分にとって一番有利かを、頭の中で計算し始めた。お出汁をたっぷり取った汁に味噌を溶き、芋を京風に甘く煮て、揺れる火を眺めながら、長い時間をかけてたっぷりと戦略を練る。各人の性格とその行動習慣、思考の癖。それらから導き出される先の絵までを計算し、想像し尽くしたら、後はどの道を歩ませるかを決めるだけだ。
途中、芋の味を見た牧の方は眉をひそめた。ああ、芋を甘くしてしまったのは失敗だった。きっと子供達は箸をつけた後に変な顔をするだろう。その光景を想像すると牧の方の表情は更に一層険しくなる。
いい。自分と時政だけ食べればいいことだ。子供達が飢えようが知ったことではない。
この辺りの野菜は京の野菜と性質が大きく違った。京風の味付けとまるで相性が悪いのだ。それが、ここに受け入れてもらえない自分と、北条家の人間との関係のようで、牧の方は大きくため息をついた。
「そうね、だからやっぱり政子殿には、この北条館から出て行って貰いまひょ」
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