「政子!」
自らを呼ぶ声に政子が目を開けると、頼朝が見下ろしていた。
「目を覚ましたか。良かった」
「私? ここは?」
「走り湯権現だ。そなたはずっと熱を出していたのだぞ」
ああ、そうだ。自分は逃げたのだ。代官となど結婚したくないと。逃げなくてはと思った時に、頼朝の顔しか浮かばなかった。だから、真っすぐ向かったのだ。馬が使えなかったから、だから小四郎に付いて来てもらって。
記憶をゆっくりと取り戻す政子に、頼朝は続けた。
「嬰児も無事だ」
「え」
政子は驚いて頼朝の顔を見つめる。頼朝は大きく頷いて政子の腹の辺りに手を置いた。
「覚渕殿がおっしゃったのだ。この子は神仏のご加護を大きく受けた子だ」
その目には涙が光っていた。
「よく逃げて来てくれたな。政子」
その言葉を聞いた瞬間、政子の目からも涙が溢れていた。
「赤ちゃんが、いるのね。私のお腹に」
「ああ」
雨の中を歩いている時、もうこのまま死ぬのではないかと思った。でも生き延びたのだ。
『人は生かされているのだ。仏によって、人によって。だから、そなたは一人ではない』
前に頼朝が話していた言葉が、政子の中を回る。雨の中、寒くて、切なくて、辛くて、もう足が動かないと思った。死んでしまってもいいと思った。なのに私は生きている。私が生きていることを喜んでくれる人がいる。
そして、お腹には赤子がいるのだ。
「政子、よく聞け」
珍しく慎重な頼朝の声色に、政子は目を瞬きさせて顔を見上げた。
「私の夢に白いキツネが現れた」
政子はぎくりとして身を強張らせる。
「生まれる赤子は八幡大菩薩様の申し子だと、そう言うのだ。大切にしろと」
「まぁ、さすが八幡太郎義家公の血筋ですこと」
政子は震える声で茶化すように相づちを打つ。
「その子は長じて貴人となる。くれぐれも殺すなよ、とそう言い置いて、キツネは消えたのだ」
「おかしな夢ね」
政子は笑った。頼朝も笑った。
「ああ、おかしい夢だな。でも覚渕殿も同じことをおっしゃった。龍の子だと」
そう言うと、頼朝は立ち上がった。
「だから、私は信じたいように信じることにした。この子は八幡様の子で龍の子だと。何事かを成し遂げてくれる子だと」
政子は返事が出来なかった。時子から買った夢。
崖を登り切ると日と月が袂に入って来る。手と髪に三つの橘の実。
「とにかく、そなたは精のつく物を食べねば。待ってろ」
頼朝は子供のように駆け出して行った。
ふと気付く。
お腹の中の子は誰の子?
頼朝とは何度も愛を交わした。でも、その前に一度、兄とも繋がったのだ。
もし、この子が兄の子だったら?
政子はぞくりと背筋を震わせた。あれだけ夢を、赤子を喜んでいる頼朝を裏切ることになりはしないか?
それから数ヶ月後、生まれたのは姫だった。
姫の名は八幡と付けられた。恐れ多いのでは、と言う政子に、頼朝は笑って答えた。
「八幡様の申し子なのだから、それ以外の名をつけたらかえって申し訳ない」
それからしばらく、親子三人は走り湯権現に護られて日々を送った。時政が兵を寄せることもなく、静かで幸せな日が続いていた。
だが、世情は大きく動きつつあった。姫が生まれて少しして、年の暮れに平清盛の娘徳子が、高倉天皇の皇子を生む。後の安徳天皇である。皇子は生後一ヶ月で東宮となった。清盛は念願の、天皇の外祖父という切符を手に入れたのである。
同時に平氏の治める所領国が一気に増える。今までその勢力の大半が西であったのに、関東にまで手が伸びるようになった。それに伴い、それまでの在地豪族と中央との慣例などが無視されるようになる。平家と手を結んだ豪族ばかりが優遇されるようになり、各豪族間で一触即発の空気が流れるようになったのである。
そんな頃、義時が単身伊豆山を訪れた。
「父さんが帰って来いと言ってる」
政子は耳を疑った。頼朝と顔を合わせる。
「兄が、頼朝殿には後ろ盾が必要だと、そう言っていた」
義時のその言葉に、頼朝の目が光った気がした。
「待って。そんなこと言って、頼朝殿を、姫をどうにかするつもりなんじゃないの?」
『八重姫の二の舞にはしたくない』
そう言っていた宗時の言葉が甦る。
それに対し、小四郎は首を横に振った。
「いや、今回生まれたのは姫だし、伊東家は大豪族だ。うちくらい小さければ平気だと父さんは言ってる」
「父さんたら、そんな暢気なこと言って」
政子は呆れた。
「それよりも、今、関東は荒れ始めている。平家にこのまま所領を好き勝手されるのはたまらないと、そう声高に言い出す者も増えている。源氏の再興をと願う者も増えてきた。そして、その旗印になるのは、頼朝殿しかいない」
珍しくはっきりと喋る義時に、頼朝は首を傾げた。
「小四郎、随分今日は饒舌だな」
「兄に言われたことを言ってるだけですが」
素直に答える義時に、頼朝は笑った。
「わかった。では北条に戻ろう」
政子は慌てる。
「ちょっと! そんなに簡単に決めていいの?」
ここにいれば安全なのに。眉をひそめる政子に、頼朝は穏やかな目で首を横に振った。
「時が来ればここも出なくてはならない。今がその時だ」
頼朝は立ち上がった。
「旗印か。そうだな。その為に生かされたのかもしれぬな」
その時、ぺたぺたと床を這いずり回っていた八幡姫が義時の膝に手を置いた。義時は無言で八幡を抱え上げる。すると、姫はにぱっと笑って義時の顔に手を伸ばした。
「珍しいな。八幡は人見知りをよくするのに」
「あら、小四郎はこう見えて昔から子供の面倒が得意なのよ」
政子は笑って答えた。
そうだ。あの時死ぬかも知れなかったのに生かされたのだ。この子も死なずに生まれた。だから、やはり進むしかないのだろう。
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