「政子!」
時政が現れたのはそれから少ししてだった。
「父さん」
「おお、二度と会えぬかと思ったぞ」
父は疲れた顔をしていた。政子は何度も頷く。
「小四郎も無事だ。だが三郎は」
父から直接聞くまでは信じないことにしようと思っていた。でも。
やはりそうなのだ。兄は死んだのだ。
二度と会えないのだ。
「どうして。せめて、せめて子でも残してくれれば」
むせび泣く時政に、政子は言いたかった。「兄さんの子はいる」と。
でも、政子は唇を噛み締めた。
その時、時政はとんでもない事を言い出した。
「三郎は儂の子ではない」
「え?」
「あれの生んだ子でもなかった」
「あれって、母様のこと?」
時政は頷いた。
「おまえ達の母が、儂と結婚する前に結婚していたことは知っていたか?」
政子は首を振った。
「いいえ、いいえ、知らなかった」
「あれは前の夫との間に二人の男の子がいた。しかし、その夫と死別した。
そしてその二人の男子と、別の妻が生んだ三郎と合わせて三人の男子を連れて儂の妻となったのだ」
政子の指先が冷たく、冷たくなっていく。
「じゃあ、三郎兄さんと私は兄妹ではないの?」
「そうだ。お前達とも儂ともあれとも、血の繋がりが全くない」
「でも、でも父さんは兄さんを嫡男だって、いつも自慢気にそう言っていたじゃない」
「ああ、自慢の嫡男だ。儂はあれと結婚する前に決めたのだ。どの子も全て儂の子として育てると。
そう、確か三郎が六つか七つの時だった。政子、お前が川に落ちたことがあった。あれがそれを助けに着物を脱いで飛び込んだと聞いて、その姿を他の男達が見ていたかと思ったら、ついつまらぬ嫉妬から三郎にあたってしまったのだ。あの時の三郎の顔は忘れられん。その直後、その上の二人の兄達が次々と流行病で亡くなった。でも三郎は生き残った。泣き崩れるあれに向かって三郎が何も言えずに立ち尽くしていてなぁ。血も繋がらぬ自分が生き残ったのが申し訳ないと言っているようで、儂はいたたまれなかったよ。
その後少しして小四郎が生まれたのだ。三郎はとても喜んで、明るくなったと喜んでいたら、ある日突然姿を消しおって。後から『もう自分はいなくてもいいだろうと思った』と言われて胸が潰れたよ。だから絶対に、絶対に三郎を儂の息子にするのだと、それからは必死だった。そしてあいつはそれに見事に答えてくれた。誰よりも立派な、儂の自慢の息子になった」
政子はただ黙って、時政の言葉を聞いていた。知らない兄、知らない父、知らない母。そして何も知らずに無邪気にいた馬鹿な私。
「それでも三郎はずっと、北条を継ぐのは自分ではなく小四郎の方が良いのではないかと思っていたはずだ。だから儂はお前と三郎を結婚させようと思ったのだ。それならば、三郎は堂々と北条を継げるからな。本当は五郎が生まれる前、祝言を上げさせようとしたのだ。だが、お前に聞いたら嫁になど行きたくないと」
政子は首を振る。
「だって、父さんは誰の妻になるかなんて言わずに、ただそろそろ嫁に行く気はないかと言ったんじゃない。だから、だから私は」
言葉が詰まる。
「それならば、五郎が生まれた後にお祝い続きで結婚させようと、あれと話し合った。なのに、五郎を生んで、あれは死んだ。儂は悲しくて、悲しくて、とても祝いのことなど出来なかった。それでそのままおまえ達を放って京に逃げたのだ」
目の前が暗くなっていく。兄と自分は血が繋がっていなかった。
「三郎はお前を誰よりも可愛がっていたし、お前も三郎を慕っていただろう」
感じなかったとは言わない。兄が自分を誰よりも慈しんでいてくれたことを。でもそれは、一番仲の良い妹に対する兄からの愛だと。そう思おうとしていた。
「儂が帰ってすぐ、三郎から話があった。政子に結婚を申し込んでいいかと。儂は嬉しかった。なのに、お前は佐殿を選んだ」
政子は首を振る。
違う、違う、違う……。
「でも、だって、兄さんには『はつ』っていう名の恋人がいたんでしょ?」
私は、その『はつ』さんの代わりに抱かれただけ。声を震わせながら、政子は何とかそれを口にする。
と、時政は軽く首を傾げた後、ああ、と気付いたように軽く頷いた。
「初はお前のことじゃないか」
「え?」
「儂にとって初めての姫、初姫。お前は小さい頃、初と呼ばれていたじゃないか」
『はつ』
愛おしげに呼びかける兄の声が甦る。同時にがたがたと身体が震え出す。
「なんで? おかしいわ。私の名なら、何故それを私が覚えていないの」
自分の呼び名を自分が忘れるわけがない。
「自分は初では嫌だと、そのような誰でも同じような名は嫌だと、そうわがままを言ったじゃないか。まだ髪上げ前の幼い頃だ。そして時政の娘だから、政子にすると言い出しおった。子をつけるなどおこがましいと思ったが、お前はどうしてもそうすると言って聞かなかった。それからは頑として『初』と呼んでも返事すらしない。後からあれに聞いた話だが、近くに同じ『初』と呼ばれる女の子がいたんだと。その子はとても器量が良くて評判だったらしいから、お前は比べられるのが嫌だったんだろうな」
「じゃあ、兄さんはもしかしてその人のことを?」
「それはないだろう。その子はお前が名前を変えた頃に流行病で死んだそうだ。お前も同じ時に同じ流行病にかかって死にかけたのだぞ? お前は何とか生き延びたが、あの時は本当に心配したぞ」
『お薬になるんだって。だから』
子供の声が脳裏に響く。
「違うわ、それ」
政子はぼんやりと答えた。
『それを食べて、元気になってね!』
そう、流行病にかかったのは私が先。私と同じ「初」という名の女の友達は、私を心配してこっそり会いに来てくれた。橘の実を持って。そして言ったんだ。「お薬だよ」って。笑ってくれた。私は嬉しかった。
でも、私が元気になった時、その子が死んだことを聞いた。私のせいで死んだ。私に会いに、橘の実を届けに来てくれたから流行病にかかって死んでしまったのだ。私はそれが悲しくて恐ろしくて、それで『初』という名を捨てた。
私が「はつ」だった。身代わりではなかった。
なのに、恋人の身代わりだと。でなければ妹を抱くはずがないと。頑にそう信じていた私がいた。
『あ、あんなの、兄さんじゃないもの!』
嫉妬から出た言葉だった。でも、兄にはどう聞こえただろう。きっと政子が自分を拒否したのだと思ったに違いない。兄として間違ったことをしてしまったと、ひどく後悔したに決まっている。だから、それからは政子と距離を置いていたのだ。
『はつ、愛してる』
ぐらぐらと床が揺れている。足元が崩れていくようだ。自分が真っすぐ立てているのか、世界が回っているのかわからなくなってきた。
苦しい。
胸が苦しい。
息が出来ない。
「でも今となっては、これも運命なのかもしれんな。三郎はこうなることをわかっていて身を引いたのかもしれん」
政子はあの時の自分を殺してやりたいと思った。兄は、一生の罪を背負い、そして政子の本当の気持ちを知らないまま戦死したのだ。父と弟を生かし、私を助ける為に危険な道を選んで。
「政子? どうした? 顔色が悪いぞ。政子?」
耳鳴りがする。視界が暗くなっていく。政子は思わず額を手で押さえた。
「誰か! 誰かあるか! おい、政子! しっかりしろ!」
父の慌てた声を遠くに、近くに、政子は意識を失った。もう、どんなに悔やんでも、時は戻らない。
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