「おまえたちは本当に姉弟だなぁ」
その言葉に、隣を駆ける宗時の顔を見る。
「おまえたちって私と五郎のこと? どうして? 兄さんだって兄弟じゃない」
首を傾げて聞く政子に、宗時は自分の前に大人しく腰掛けている五郎の頭をぽんぽんと叩いた。
「市に行くのがよっぽど楽しみなんだな。全く同じ顔でにこにこと笑ってるからさ」
宗時の言葉に、政子はふん、とそっぽを向いた。それから口を尖らせる。
「同じ顔じゃありませんけど!」
そう、政子と五郎はあまり似ていなかった。
政子たちの亡くなった母は、この辺りでは力のある大豪族、伊東氏の姫だった。伊東祐親には何人かの姫があったが、どの姫も美人の評判が高かった。その二の姫を時政は嫁に迎えたのである。
しかし、美人の姫に対し、大きな目、大きな口、大きな鼻の、鬼のような造作の時政。また二人は、身分の上でも釣り合いが取れているとはあまり言えなかった。
伊豆の大豪族の姫と、小豪族の鬼。「美女と鬼」だと噂されていた。
伊東の上の姉姫は半島の大豪族、三浦氏に嫁いでいた。二の姫である政子たちの母も、いずこかの大豪族へ嫁ぐだろうと言われていたのだが、伊東の姫は幼馴染みである時政との結婚を貫いたのである。賢くて美しい伊東の姫は時政の自慢の妻で、政子達の自慢の母であった。
息子は母に似て、娘は父に似る。世間一般にそう言われる通り、政子は鬼の父に似て、宗時、義時、五郎は美人の母に似た。
そして悔しいことに、何故か妹たちはあまり父には似ず、どちらかと言うと母に似ていた。それが政子には納得がいかなかった。
すっかり仏頂面になった政子に、宗時は苦笑しながら北西に広がる富士の山を眺め、話題を変えた。
「今日はまた、富士のお山が綺麗だな」
言われて政子も富士の方角に目をやる。
「富士は伊豆から見るのが一番美しいわね」
伊豆からは内陸越しと海越しの二つの富士を楽しむことが出来る。それが伊豆の住人の自慢であった。
駿河や甲斐の国の人らが聞いたら「一番の富士はうちだ」と争いになるであろうが、人というものは自分の故郷を一番と思いたいものである。
急に寒くなったと思ったら、やはり富士は白い冠を裾の方まで広げていた。伊豆には雪が滅多に降らない。政子達にとって、雪と言えば富士の山の景色だった。
「政子とこうやって出掛けるのは久しぶりだな」
「だって兄さんは出掛ける時に、いつも小四郎ばかり連れて行くんですもの」
「あいつは放っておくと書物ばかり読んで屋敷内に引きこもるから、無理にでも連れ出さないといけないのさ」
「ずるい」
「じゃあ、久しぶりにまた二人で遠乗りに出掛けるか?」
「本当?」
政子の顔が輝く。
「ごろも行く!」
五郎も顔を輝かせて兄の顔を見上げる。が、宗時が返事するより先に政子が声をあげた。
「五郎は駄目!」
「やだやだぁ! ごろも行く!」
「駄目ったら駄目よ! 五郎はまだ小さいもの。もっと大きくなったらね」
政子は宗時の言葉が嬉しくてたまらなくて、馬を一気に駆けさせた。
兄は約束を破らない。だから、近いうちに本当に連れて行ってくれるに違いない。
五郎が生まれて父が京に出掛けてからというもの、宗時も政子も途端に忙しくなってしまって、遠乗りになどのんびり出掛けられなかった。
五郎が生まれたのは、父が京の大番役として出かける直前。
三郎宗時、政子、小四郎義時、保子、時子、育子、泰子、そして五郎。母は、たくさんの子を産んだ。宗時の上にも男の子が二人いたらしいが、幼くして亡くなったようで政子は顔も知らない。
父は母をとても愛していた。この時代には珍しく側室も持たずに母だけを愛し、近隣では評判の仲の良い夫婦だった。五郎を身ごもった時、母は既に年齢も高く、泰子の次としては少し間をあけての身重だった。でも経過は順調だったし、不幸が待っていることなど誰も思いもしなかった。
だが、難産の末に母は亡くなった。喜ばしいはずの出産は悲劇に変わる。
それでも五郎は生き残った。
産声を上げず死産かと思われたのが、産婆が足を持ち上げて背中を叩いた瞬間、弱々しく一声上げ、そして眠りについた。
母の死の直後、葬儀だけを済ませると時政は逃げるように京に起った。後を長男である宗時と、長女である政子に任せて。しばらくの間は手紙も何もなかった。
父の留守の間の領内を治めるのは兄である三郎宗時の役割。屋敷内の采配を振るうのは妹である政子の役割となった。生まれたばかりの赤子は政子の手に委ねられた。乳母の手配から、妹たちの面倒、領内の小さないざこざまで政子の耳に届けられるようになる。
次男である小四郎義時は元服こそ済ませているものの、のらりくらりとした性格。寡黙で本ばかり読んでいて、話しかけても返事もろくにしない。何を考えているのかわからない少年。
それでも反抗するでもなく、兄や姉の言うことはよく聞いていた。
そうして過ごした二年余り。京の大番役の任期もそろそろ終わる頃だった。
政子は風になびく馬のたてがみを軽く漉きながら口を開いた。
「ねぇ、父さんが帰って来るの、いつ頃になりそう?」
宗時は、西の京の方角、男山の方に首をまわして答える。
「来年の初めになりそうだってさ」
「ふぅん、そう」
帰って来なくてもいいのに。
すると、軽く笑う気配が感じられた。
横を向いたら、宗時がこちらを見て微笑んでいた。
「政子は父さんの帰りが待ち遠しくないのか?」
「だって……」
父が帰ってきたら母のことを思い出さずにはいられない。忙しさにかまけて思い出さないようにしていたのに。それに……。
「父さんが帰って来たら、私、きっとすぐに嫁に出されるわ」
自分は来年、二十一になる。既にゆき遅れで良い貰い手もないが、父はどうにか相手を見つけてこようとするだろう。
政子が残っていては妹たちが嫁にいけないなどと、それらしいことを言ってくるに違いない。現に、少し前に父から届いた手紙には、そのようなことがつらつらと書き連ねてあった。
「政子は結婚したくないのか?」
「したくない」
即答する。
それから少し息を詰め、続きを口にする。
「三郎兄さんは?」
兄のそういう浮いた噂を聞いたことがないとは言わない。伊東の姫、大庭の姫、狩野の姫など……。でも、どの話も先に進まなかった。
『兄さんは好きな人はいないの?』
そう聞いてみたい。でも聞いてはいけない。
誰にでも秘めた恋はある。それはわかってはいるが、兄のそれだけは自分の耳に入れたくなかった。過去だろうが未来だろうが、兄が誰かに想いを寄せるという想像をするだけで胸が灼かれる気がする。
黙って宗時の答えを待つ政子に、宗時は珍しく物憂げな表情で口を開くとぼそりと呟いた。
「俺は、そうだな。父からの手紙には色々書いてあったがな」
やはり。
政子は喉の奥がぎゅうっと締まるような心地がして目を固く瞑った。小なりとは言え、北条家の嫡男である宗時がこのまま独り身というわけにはいかない。
でも結婚したら、兄はその人のものになる。その人が家の中に入ってきて、兄さんの隣に座る。兄さんはその人に微笑みかけて、その手を取って、そしてその胸に抱く。
兄さんは、その人をどんな風に抱くの? どんな顔をして抱くの? 私には見せない顔で……。
カツカツカツ、という馬の蹄の音、鞍に当たるあぶみの音が、布か何かにくるまれたように、ぼわんとくぐもって響き、遠く遠く耳の後ろの方から聞こえて来るように感じる。目の前の景色が、昏く狭まっていく。
嫌だ。そんなの見たくない。
その時、ふと政子は思った。
そんなものを見るくらいなら、自分が先に家を出た方がましかもしれない。そう。相手なんて誰でもいい。
兄が他の女の人に笑いかけるのを、じっと耐えて見守るくらいなら、私はどんな相手と結婚したって構わない……。
自分のものとも思えぬような薄昏い泥々とした感情に、政子は驚き、そしてぶんぶんと首を横に振った。
いやだ。
そうよ、そんなの嫌。どんな相手と結婚したっていいだなんて……。
父さんが帰って来なければいい。そうすれば私は北条の館で兄さんの側にいられる。
兄妹じゃなければいいのに。兄妹じゃなければ、私は……。
心底泣きたい気持ちで、でも泣くわけにはいかなくて、政子はじっと前を見据えた。
負けるもんか。
負けるもんか、負けるもんか。
そんな、後から入ってくる女の人なんかに私が負けるもんか。
必死で念じる。
でも油断をしたら涙が零れそうで、嗚咽が漏れそうで。だから政子は白く雪を被った富士の山を見て、さぞ、その美しさに見とれているかのような優雅な素振りで馬を駆けた。
富士の山は不二の山。朝な夕なに美しい姿で政子を慰めてくれる。今もそう。優しく雄大なその姿は、亡き母を思い出させた。でも、不二の霊山も私の本当の願いは聞き届けてはくれない。
その時、背中から宗時の声がした。
「政子、父さんが帰ってきたら、お前に話がある」
政子は咄嗟に振り返れなくて、富士の山を見ながら、ただ返した。
「私に話?」
「ああ」
宗時の馬が速度を上げて政子の馬を追い越していく。政子はそこで初めて兄の方を振り返ったが、兄の顔は、その表情は見えなかった。
「話って何の話?」
問いかけたが、聞こえなかったのか答えがない。
「ねぇ、兄さん?どんな話なの?」
胸に広がる嫌な予感に、政子は少し声を荒げる。でも、宗時はこちらを振り返らずに答えた。
「父さんが帰ってきたらな」
だから、それ以上は聞けなかった。
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