何よ、なんなのよ。あの言動は。頼朝という人間がまるでわからない。
でも、正直な所を言うと、ほんの少しだけは自分の態度も反省はしていた。
仕方ない。政子は本殿に向かい一礼すると、じっと鏡を覗き込んだ。それから一息ついて手を合わせる。
「ごめんなさい。少し言い過ぎました。男女の中のことは、他人にはわからぬこともあるのかもしれなかったのに。でもでも、やっぱり私はあいつが苦手なのです。だって、何を言ってるのか全然話が通じないのですもの。八幡様、こんな私ですが、どうかお赦しください。あ、そうだ。それから今朝の嫌な夢をどうぞ祓ってやってくださいませ」
一応何となくは謝りつつも、最後は自分の願い事をしっかりと唱えて頭を下げていた政子に、またも声がかかる。
「そなた、逢い引きの約束でもしているのか?」
それは石段を下りていったはずの頼朝の声。
「は?」
政子は手を本殿に向かって合わせたまま、首だけをぐるっと回して石段の上の頼朝を睨みつけた。
前言撤回。さっきの「ごめんなさい」は無しだ。逢い引きだなどと、何てことを言い出すのか。まだ薄暗いとは言え、既にもう朝だ。こんな時間から逢い引きに出掛ける女がいるものか。
政子は怒りを通り越して呆れかえった。軽蔑の色をたっぷりと含ませて睨み据える政子に、頼朝は「ふむ」と顎に手をやり、うんうんと頷いた。
「では、何者かに懸想されてるのではないか?」
「懸想って、一体誰が誰によ」
「そなただ。誰にかは私は知らん。だが、そなたの様子を物陰から窺っている男がいた」
「え?」
確かめようと駆け出した政子を、小さいけれども鋭い声が止める。
「来るな!」
政子は足を留めた。だが、その時既に政子は石段の一番上に辿り着いていた。
あーあ、という顔をする頼朝。
でも、政子の目はそこで捉えた。石段の中腹、舞殿のある辺りで一つの影が動くのを。
頼朝は石段を登りきった姿のまま、後ろは振り返らずに政子を横目で見て口を開く。
「私を狙っているのかとも思ったが、どうもそうではないようでな」
「何でそんなことわかるのよ?」
「私が通り過ぎるのをやり過ごそうとしたからだ」
政子は頭は動かさぬままも懸命に目をこらし、誰がいるのかを確かめようとした。
でも見えない。政子は苛々とする。
「さっき、あなたは逢い引きじゃないかって言ったわね。なのに何で戻ってきたのよ。人の恋路の邪魔でもするつもりだった? あ、それとも仲間に入れて欲しいって?」
わざと揶揄する言い方をしてやる。すると、頼朝はまじまじと政子を見つめ、口を開いた。
「北条の一の姫は随分と剛胆な姫だな。いや、確かに三人で睦み合うのも楽しそうだが」
バチーン
気付いたら、政子は想いっきり派手に音を立てて、頼朝の頬を叩いていた。
が、その直後気付く。
「あ」
石段の上で人を叩くなど、あまりに無茶な行為だった。手を出してしまってから慌てた政子だったが、意外にも頼朝はよろけもせず顔を上げた。
「痛いではないか」
本当に痛そうな顔をして、頬を押さえてみせる。
頼朝が石段から落下しなかったことに、政子はほっと胸を撫で下ろしつつも、噛み付いて見せた。
「あなたが失礼なことを言うから悪いでしょ!」
確かに、喧嘩を先に売ったのは政子だ。だが、未婚の姫に対してその台詞は、あまりに無礼ではないか?
と、
「おっと、いかん」
頼朝はそう言って、石段を下りようとした。
「え」
男が待ち伏せしているというのに、頼朝は一体どうするつもりなのか。
「よいか、北条の姫。もう私に話しかけるなよ」
低い声。
「え?」
頼朝の後を条件反射的に追いかけ、一緒に石段を降りかけていた政子は驚いて足を留める。
「どういうこと?」
話しかけるが返事は無い。頼朝は構わず、どんどん下りていこうとする。
「ちょっと! どういうことなのよ! 答えなさいよ!」
大音声の政子に、頼朝は何とも迷惑そうな顔をして振り返った。
「そなたに懸想するものが追ってきたのだろう?私とそなたとは何の関係もない。
なのにこのように会話をしていては男に下手に誤解され、巻き込まれて殺されてしまうかもしれぬ。それはたまらぬからな」
「誤解って」
「ほら、よく言うではないか。『人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んでしまえ』と。では北条の姫、達者でな」
へらっと逃げようとする頼朝の背を、政子は信じられないという目で追った。この男、政子を見捨てて、神社から逃げようとしている。まさか、私に殴られた仕返しを今しようというつもりではないのか?
「待ちなさいよ!」
政子は石段を駆け下りると、頼朝の横に並んだ。
「一体、どこをどうやったら、あんな殺気だらけの男が恋をしてるなんて思えるのよ!」
「いや、恋は美醜に関係なく万人に許されたものだと思うぞ」
「何言っちゃってんのよ! そういう問題じゃないでしょ!」
「いやいや、恋は良いぞ。心を癒してくれる」
「勝手に癒されてなさい!」
「ほらほら、そのようにすぐに目くじらを立てる。だから、そなたはいつまでも嫁にゆけぬのだ」
ああ、もう。頭がおかしくなりそうだ。この男の頭がおかしいのか、それとも政子の頭がおかしいのか?
政子は頼朝の段下にまわると、その着物の襟をふんづかまえ、思いっきり引っ張り上げた。
が、意外にも頼朝は背が高かった。石段の段差もあって、いつものようにはいかない。
だが、重力か、下がる途中で勢いがあった為か、下の段にいる政子の顔の位置に頼朝の顔が寄ることとなった。
「ひっ!」
自らしたこととは言え、政子は慌てた。ちょっと待って。これではまるで口付けをしようとしているみたいじゃない。
例の噂が、政子の頭の中をぐるぐるとまわる。
『ねぇねぇ、あの佐殿って方、すごいんでしょう?』
『ちょっと二人で軽く立ち話をしただけで、相手を妊娠させてしまうんだって』
『さすが、この辺の男とは違うね』
『だって今は罪人とは言え、元は都の御曹司ですものね』
それはまるで物語の中の彼のよう。
「あ、あんたの頭の中は光源氏の君なの?」
頭の中は恐慌状態ながら、黙ってこのまま見つめ合っているわけにもいかなくて政子は叫んだ。
政子とて一応、「源氏物語」は読んだ。だが、恋に破れてよよと泣く男の姿、すぐに鞍替えして他の姫にうつつを抜かす男の姿、そして、そんな駄目男に翻弄される美女達の姿に、ただただ呆れ返るばかりであった。教養の為にと一通り目は通したが、その結果は政子の貴族嫌いに拍車がかかっただけだった。
頼朝は襟を掴まれても動じずに、のほほんと政子を眺めていた。
「な、なによ」
もう手を放しても不自然ではないだろうか?距離を取る機をはかる政子に、頼朝は珍しく楽しそうな顔をした。
「そなた、近くで見たら、なかなかに良い面構えをしておるな」
「は?」
「強そうな目に眉、鼻筋も通って頑固そうだ。口も大きく声もでかい。武将であれば、きっと名を立てられたであろうに」
その瞬間、政子はバチーン、と頼朝の頬を再度叩いていた。
「私は女よ! 悪かったわね!」
「おいおい、痴話喧嘩かい?」
不気味な声が低く響いたのは、その時だった。
はっと身を強張らせて振り返った政子の前に現れたのは、先日市で見かけた代官の用心棒だった。だが今回は、例の主格の男が一人。政子達の数段下で殺気を放っている。
「いやいや、どうも。お見苦しい所をお見せした」
やんわりと答え、そのまま何事もないかのように石段を下り始める頼朝。「え」と考える暇もなく、ぐいと強く手を引かれ、政子も頼朝の後を追って男の隣を通り過ぎた。いつの間に手を握られていたのか。
が、
「待ちょう」
男の制止の声。その声の持つ殺気に政子の足がすくむ。
「あ……!」
足がもつれ、政子は石段を踏み外した。
階段を転げ落ちる!
宙に投げ出され、思わず目を瞑った政子は、次に気付いた時、頼朝の胸の中にいた。
「気をつけよ」
頭上から降って来る声に政子は顔を上げた。政子を支えるその体躯が、意外にしっかりとしていることに政子は驚いていた。それに、政子の手を握るこの手、これは弓も剣も使う手。
「佐殿?」
ぼんやりと見上げた政子の目の前で、途端に頼朝は苦虫を潰したような顔をした。
「あーあ、何でそこで私の名を言ってしまうかなぁ」
「え?」
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