案内されたその小屋は外見はひどい掘建小屋だったが、中は意外に片付いていた。
中央では薪がたかれ、パチパチと軽く温かな音を立てている。
部屋の隅には、手足を洗う為の桶と水も用意されていた。
頼朝は政子をおろすと満足げに頷いた。
「へえ、あいつ、なかなか気が利くじゃないか。後で名前を聞いておこう」
政子は笑った。
「安達藤九郎殿とは違って、よく気がつくって?」
流人時代からの頼朝の従者である藤九郎は、政子にとっても馴染みの人物だ。
頼朝は「うーん」と首を傾げた後に、頭をガシガシと掻いた。
「藤九郎は、まぁ、あれはあれでいいんだ。やる時はやる男だから」
「そう?」
「ああ」
そう答えた後に、にやっと笑って政子を見下ろす。
「例えば……そうだな。政子、そなたを妻に出来たのもあいつの手柄だしな」
「あら、それって手柄じゃなくて失敗なんじゃないの? 浮気にうるさい妻で大変なんでしょ」
からかうように言ったら頼朝は苦笑した。
でも何も言わず、政子の肩に手を置いて座らせると桶の水に手を浸し、政子の足を拭い始める。
「あら、鎌倉殿に足を洗っていただくなんて光栄ですわ」
「おや、いつでもどこでも洗って差し上げるのに」
言って、頼朝は政子を下からからかうように見上げる。
政子は、ムと口をつぐむと、ぱかんとその頭を軽く殴った。
「こんの色魔!」
まったく、この男はすぐにそういう方向に持って行こうとするのだから!
「痛いなぁ」
頼朝は軽く口を尖らせると、政子のもう片方の足に手を伸ばした。が、ふと手を止める。
「血が出ているぞ」
「え?」
気付けば、政子の足は赤く血を流していた。貝殻ででも切ったのだろうか。
「痛くないのか?」
頼朝の問いに政子は頷く。
「うん、別に」
足が冷たく冷えているせいだろうか、感覚があまりなかった。
「洗うぞ」
「うん」
別に痛くない。
そう思っていたが、さすがに直接拭われると痛い。しみる。
「うぐぐぐ……」
政子は歯を食いしばって唸る。途端、頼朝は噴き出した。
「ほら、痛いんじゃないか」
政子はカッとして叫んだ。
「ちょっと! わざと痛めつけないでよ!」
「そんなことするものか。砂が入ってるのだ。取らぬと痕が残るぞ」
「えー……」
政子はげんなりとする。
「いいわよ、御所に戻ってからで。それより早く着替えないと」
風邪を引き込んでしまう。
そう続けようとしたが頼朝は足を離さない。それどころか、その足を更に高く持ち上げ、こともあろうに口をつけて舐め始めた。ぬるりと柔らかな舌が土踏まずをまさぐる、その妙な感覚に思わず身を竦める。
「ちょ、止めてよ」
「我慢しろ」
短く、有無を言わさぬ言葉に政子は従う他はない。
でも、くすぐったいようなむず痒いような、ぞわぞわと身体を這い上るえも言われぬ感覚に、政子は耐えかねてもじもじと身を捩った。
「ん、ん……」
「動くな」
「でも」
じくじくと疼く傷口をいたぶるように頼朝の舌は政子の足裏を這う。冷たく凍った自分の足を、身体を溶かすようにぬめぬめと蠢く生ぬるい感触。
身体の奥、少し忘れかけていた感覚が戻ってきて、政子は思わず後ろに手をついた。
いやだ。
困る。
変な気分になって困る。
「ね、まだ?」
「まだ」
「も、いいから」
その時、頼朝はふと足から顔を離し、政子の耳元に口を寄せた。小さく囁く。
「声を出すな。艶っぽい声が外に漏れているぞ」
政子は思わず口に手を当てた。外には先ほどの兵達が控えているはず。こんな小さな壊れかけの小屋、壁なんてあってないようなもの。丸聞こえではないか。
と、頼朝は政子の足首を掴んでいた手を放すと、おもむろに政子の足を被う着物の裾をはだけ始めた。
「ちょ、ちょっと?」
政子は慌てて後ろに後じさろうとする。でも、頼朝はそれを許さなかった。
「濡れている着物を着替えるのだろう?」
それは確かにそうだが、この頼朝の動きはどう見ても違う。政子を抱こうとしていた。
ここに、海に連れて来られた時点で、頼朝はそのつもりがあったのだろう。
では政子はどうだったのか? と言えば、政子にはそのつもりはまるでなかった。万寿を出産してから三月ばかり。身体はともかく、政子の気持ちはまだ母のそれだった。母らしいことは何も出来ていなかったけれど……。
でも、頼朝は一度そうと決めたことはほとんど翻さない。穏やかでおっとりとした風貌をしているから、優しげで何でも言うことを聞いてくれそうに見えるが、その実、わがままを言うのは政子よりも頼朝の方が圧倒的に多かった。そして、一度言い始めるとうるさいことこの上ない。最終的には必ず自分の思いを通した。
政子は諦めると、頼朝が着物を脱がすまま大人しくしていた。ただ、口を固く手で押さえて。
そんな政子を見て、頼朝は少し可笑しそうに笑った。
「懐かしいな。そなたを最初に抱いたのもこんな小屋だった」
政子は「ん?」と首を軽く傾げる。
「ほら、流人の頃、北条殿が最初に用意してくれたのは、こんな古い建物ではなかったか?」
「こんなに小さくないわよ」
政子は口を抑えていた手を離すと、失礼ねと横を向いた。
確かに古くて風が吹き荒れる小さな屋敷ではあった。
壁にかけられた弓や長刀、頭の上の方に転がる刀剣。あちこちに散乱している書物。頼朝が書き散らかした写経の紙。墨の匂い。お香の匂い。
でも、あの時は頼朝と政子、二人だけの世界があった。
懐かしいと思う。たった数年前のことなのに。
だが、あの頃はあの頃で辛かった。未来が見えなくて、やけっぱちな気分で、日々を苦しんで過ごしていた。
だから「昔に戻りたいか?」と問われれば、素直には「うん」と言えないだろう。
でも……
政子は頼朝を見つめた。
頼朝も政子を見つめる。
今、この小屋ならば、あの時と同じ。
最初に頼朝に抱かれた時と同じ。二人だけ。
例え、外に誰がいても。
政子はほぅ、とため息をつくと力を抜いた。そして瞼を下ろす。
その政子の身体に頼朝は手を置き、そして覆い被さった。
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