『触れてはならぬ』
青年は低い声で呟いた後、ゆっくりと三郎を掴んでいた手を開いた。辺りの霧が晴れていく。霧はある一点へと凝縮していき、徐々に白い人の形を浮かび上がらせた。
いや、人ではない。上半身こそ人の形をしていたが、その下半身は長くグルグルととぐろを巻いていた。
「物の怪……!」
三郎は思わず少女の背に隠れる。
「やだ、私の後ろに隠れないでよ!」
抗議の声を構わず、三郎は少女の肩に捕まり、一心に念仏を唱え始めた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
「女の子の後ろに隠れるなんて最低。あんた武士の子なんでしょ!」
「武士の子でも怖いものは怖いもの。それに僕は僧になるんだ!」
「僧になるなら尚のこと何とかしてよ!」
「まだ僧じゃないもの!」
「この……腑抜け! それでも男なの?」
頭を殴られるが、顔を上げられない。
「神様、仏様、弁天様、龍神様、阿弥陀様、お釈迦様、観音様、菩薩様、明王様、閻魔様、八百万の神様、どうか助けて!」
思いつく限りの神の名を口にする。
「無茶苦茶よ!」
少女が叫んだ時、ククク……と密やかな笑い声がさざめくように辺りから寄せて来た。
『ようやっと現れたか。待ちくたびれたぞ』
『お久ぁ。大きくなったね』
『フン、折角の玉をロクな使い方もせんと』
『あり? 白はどこ行ったでし?』
『あら、さっきまでいたのに』
『ケッ、きまりが悪くて隠れてるんだろ』
『腑抜け』
様々な色の声が上から下から横から響いてくる。高く、低く、太く、細く、何人いるのかも分からない。声はすれども姿は無い。霧が晴れただだっ広い水色の空間で、三郎と少女は種々の声色に囲まれて立ち尽くした。
『白はどこ? 玉を取り返さないの?』
『……白のヤツ、もしや玉をこのまま手放すつもりではあるまいな?』
『アイツにそんな度胸があるきゃよ!』
『こうしてお膳立てしてやってるというに』
文句を呟く声達の中、はっきりとした声が一つ響いた。
『お主ら、いい加減に諦めよ。白は昇華させるつもりじゃ』
全ての声が止まる。空気が重みを増す。しばしして怒りを帯びた太い声が響いた。
『そのようなこと、儂は許さんぞ』
他の声達が賛同する。
『ああ、そのようなことはさせぬ』
『我々は兄弟だ。玉は兄弟皆の物』
『だが玉は白に取り戻させねば。どうする』
それに対する返答はない。三郎は自分に視線が集中するのを感じた。
『もう少し預かっておれ』
ごうごうと風が渦を巻き、ぼこぼこと泡が噴き出す音。そして三郎は意識を失った。
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