「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
念仏の声が溢れる庵の中。多くの人が座して詰め合い一心に手を合わせている。その人波の中を一人の僧がゆっくりと歩いていた。
法然上人。穏やかな表情、柔らかな微笑。流刑を終えて幾分線が細くなり、更に光り輝いて透明な存在となっていた。
「この末法の世で、浄土に救いを求めることは容易ではありません。でも無理をする必要はありません。あなた方はあなた方のまま、そのままで救われる簡単な道があるのです」
心に響く温かな声。
「寺を建てたり仏を奉納したり、それが出来る財力を持つ方はそうなさればよい。でもそんな方ばかりではありません。各々、今持てる力の中で今出来ることを心をこめて行えば良いのです。それが一心に念じるということ。身分も性差も年も関係なく、一心に穏やかに念仏を唱えましょう。それによって我々は救われるのです」
少女は場の雰囲気に呑まれたような顔で突っ立っていたが、三郎が少し開けた空間に手招きしたら、駆け寄ってきて擦り寄るようにして座った。それから首を廻らせてそっと辺りを窺う。
上人はそんな少女に気付いたか、静かにこちらへと足を進めてきた。
「初めてですね。お念仏はご存知ですか?」
少女は黙ったまま首を小さく横に振る。
「『南無阿弥陀仏』と阿弥陀様の御名を一心に唱えれば良いのですよ」
「一心って、どうすればいいの?」
「誠実に、深く、極楽浄土に生まれたいと願いながら、ただ唱えることですよ」
「誰が唱えても救われるって本当ですか?」
「ええ、どなたでも同じですよ」
「女でも?」
「ええ、勿論。女人でも童でも、罪人だって。阿弥陀様は全て救って下さるのです」
「じゃあ、龍……でも?」
龍という言葉に三郎は少女の顔を見る。先も龍穴があるから祇園社に詣でたと言っていた。もしかして何か因縁があるのだろうか?
「ええ、龍でも。唱える口と心さえあれば、何者であってもいいのですよ。私達は皆同じ罪深い存在。いつまでも輪廻を繰り返す救われがたい存在です。でもそのような私たちでも『南無阿弥陀仏』と唱えれば、阿弥陀如来様は必ず救ってくれます」
少女の問いに丁寧に答える上人。少女はそれ以上問うことはやめて口を閉じたものの、まだ納得はしてないだろう。周りを気にしつつ首を竦めている。三郎は気にせずに目を閉じると皆に声を合わせて念仏を唱え始めた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
三郎も最初の頃は少し気恥ずかしい気がしていた。念仏を唱えさえすれば極楽浄土が約束されるなんて信じられないと思っていた。寺社に多額の寄付や仏像の建立が出来る上位の人間だけが浄土に行けるのだと。でも、ここの空気は清浄だ。心が落ち着く。
『女人でも童でも、罪人だって』
本当にそうならいいなと三郎は思った。皆が救われるなら罪人だって罪を改めるはずだ。善人になるはず。そうしたら争いなど無くなる。皆が笑顔で安心して暮らせるのだ。なんて素晴らしい世界だろう。
静かな読経の声が流れる中を三郎はしばし口を休めて薄く目を開いた。広がるのは不思議な光景。老いも若きも、男も女も、公家も武家も、皆互いの違いなど気にならないように同じ場所にいて同じように頭を垂れ、同じように口を動かし同じ言葉を発している。
ふと視線を感じて顔をそちらに向けた。法然上人が三郎を見ていた。目が合うと上人は優しく目を細め、小さく頷いて顎を横に向ける。そちらを見た三郎は、少女がいつの間にか手を合わせて念仏を唱えているのに気付く。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
長い睫毛は頬にかかり、念仏に合わせて微かに震えている。しゃくれた細い顎、意外に分厚い耳朶。きりりと後ろで一つに結い上げられた長い黒髪。束ね損ねた後れ毛がうなじにかかって、くるりと滑らかな円を描いている。
綺麗だと思った。静かで美しい横顔だ。亡くなった母に似ている。母はよく神仏に手を合わせ感謝を唱える人だった。でも母は色白のしとやかな美人で、この少女は浅黒い肌のお世辞にも上品とは言えない子で。だからまるで違うのに、三郎は何故か少女のことを懐かしく愛しく思った。
だが、ぼんやりと少女の横顔を眺めていた三郎は、次の瞬間驚いて息を呑んだ。彼女がボロボロと涙を零し始めたのだ。
少女は滝のように涙を流しながら、でも念仏は止めずに唱え続けていた。
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